我的母亲 堺利彦

私の母

堺利彦

 私の母、名は琴こと、志津野しづの氏、父より二つの年下で、父に取っては後添えであった。父の初めの妻は小石氏で、私の長兄平太郎を残して死んだ。そのあとに私の母が来て、私の次兄乙槌おとつちと私とを生んだ。私の母が私を生んだのが四十二歳の時、兄を生んだのが三十八歳の時だったはずだから、思うに、母は三十六、七歳の時、堺家にとついだものだろう。

 かように母はずいぶんの晩婚であった。それには理由がある。もっとも、そんなことは、私が大人おとなになってから独りで自然に考えついたことで、誰に話を聞いたのでもなく、また少年の頃は全く何の気もつかずにいたことである。母は甚だしいジャモクエであった。その頃の人としては、「キンカ上品、ジャモ柔和」というコトワザがあった位で、一通りのジャモなら一向問題にならなかったのだが、母のジャモはかなりひどかった。鼻の穴が片方はほとんど塞がっており、鼻筋は全く平らに押しつぶされていた。女としてそういう顔容かおかたちになった以上、まず嫁入りは六かしいはずである。ただ、私の父が女房に死なれて貧乏世帯に子供をかかえて当惑した時、そこにほぼ双方の境遇が平均したものと考えられる。その外にどういう事情があったのか、私は少しも知らない。何にもせよ、母の晩婚の理由がその容貌上の大弱点にあったことは確かだと思う。しかし、そういう差引算用の結婚が必ずしも夫婦の愛を害するものではなかった。またそういう見苦しい晩婚の女の腹から、二人の立派な(!)男の子が生れるのに、何らの差支えがなかった。またその生れた子供が、母に懐なつき、母にすがり、母を慕い、母を愛するのに、その母の醜い容貌が何らの妨げにもならなかった。実際、醜いと感じたことすらなかった。

 しかしこういうことがあった。ある日、私が鳥わなの見廻りか何かに行って来ると、内には母がたった一人で炬燵こたつにあたっていた。その顔がよほど変に、私に見えた。白毛しらがまじりの髪が乱れかかっているところなど、物凄いような気がした。もしかこれが、狸か何かが来て母を喰い殺して、その代りに化けているのではないかと、私は思った。しかし母がやがて笑いを含んで話しはじめると、そんな怪しみなど勿論すぐ消えてしまった。私としては、若い美しい母などというものは、ついぞ考えたこともなかった。

 母は平仮名ひらがな以外、ほとんど文字というものを書いたことがなかった。しかし耳学問はかなりに出来ていた。里方の志津野家が少し学問系統の家であったのと、三十幾つまで「行かず後家」の境遇にあったのとのためだろう、浄瑠璃とか、草双紙くさぞうしとか、軍談とかいうような物には、大ぶん聞きかじりで通じていた。私らを教訓する時、よく浄瑠璃の文句が引き言にされていた。そういう意味から言えば、私らは、父の方よりも、母の方からヨリ多く教育されていた。

 母はまた、憐みぶかい性質であった。折々門に来て立つ乞食のたぐいなどに対して、いつも温かい言葉をかけていた。猫を可愛がることも、私は母から教えられたような気がした。母は不器用なかたちで、風流と言ったような、気のきいた点は少しもなかったが、それでいて自然の美に対する素朴なアコガレを持っていた。例えば、活け花などという物に対しては、母はほとんど何の感興をも持っていなかったようだが、山や川などに対しては、「おおええ景色じゃなア」などと、覚えず感嘆の叫びを発したりすることがあった。そして、私は、母の感嘆の叫びに依って、自分の目が開いたような気がしていた。

我的母亲名叫琴琴,志津野氏,比父亲小两岁,是父亲的后继者。父亲的第一任妻子是小石氏,去世时留下我的长兄平太郎。后来我母亲来了,生下了我的二哥乙槌和我。我母亲四十二岁时生下我,三十八岁时生下哥哥,我想母亲应该是在三十六、七岁时嫁入堺家的。

母亲的婚姻相当晚婚。这是有原因的。不过,这种事是我长大成人后一个人自然而然想到的,也没听谁说过,而且少年时代完全没有注意到。母亲的脸色非常暗淡。当时的人有句谚语叫“金花高雅,邪摩柔和”,如果是一般的邪摩,根本不成问题,但母亲的邪摩却相当严重。一个鼻孔几乎被堵住了,鼻梁完全被压扁了。作为一个女人,既然长了这样的容貌,恐怕很难嫁出去。只是,我的父亲失去妻子,在贫困家庭抚养孩子,感到困惑的时候,双方的境遇几乎是平均的。除此之外还有什么内情,我一概不知。不管怎么说,母亲晚婚的原因确实在于她容貌上的大弱点。但是,这种以算计为目的的婚姻并不一定会损害夫妻之间的爱情。另外,从那种难看的晚婚女人的肚子里,可以看到两个人出色的(!)生男孩没有任何障碍。生下的孩子依偎着母亲,依赖着母亲,爱慕着母亲,爱着母亲,而母亲丑陋的容貌却没有任何妨碍。实际上,我甚至没有觉得丑陋。

但是发生了这样一件事。有一天,我去巡视鸟笼之类的地方回来,发现屋里只有母亲一个人坐在被炉旁。那张脸看起来很奇怪。混杂着白毛的头发凌乱不堪,让人觉得很可怕。我心想,莫非这是狸猫或其他什么动物来咬死母亲后变身而成的?不过,母亲很快含笑开始说话,那种怀疑当然很快就消失了。我从来没有想过年轻漂亮的母亲。

母亲除了平假名以外,几乎没写过文字。但耳学问相当高明。或许是因为志津野家属于比较有学问的家族,而且三十多岁还处于“不走后家”的境遇,所以对净琉璃、草双纸草草纸、军谈之类的东西,都是一知半解。教训我们的时候,经常引用净琉璃的句子。从这个意义上说,我们从母亲那里受到的教育比父亲多得多。

母亲也是个惹人怜爱的人。经常对站在门口的乞丐之类的人说些温暖的话。我觉得疼爱猫也是母亲教我的。母亲笨手笨脚,一点儿也没有所谓风流的机灵之处,却对自然之美有一种朴素的向往。比如,母亲对插花之类的东西几乎没有任何兴趣,但对山川之类的东西,有时会不自觉地发出感叹的叫声:“景色真好啊!”随着母亲感叹的叫声,我觉得自己睁开了眼睛。

 母はまた、すこしばかり和歌をやっていた。これはただ、里方における周囲から自然に養われたことで、母にそういう才能があったとは思われない。しかし、父の俳句と、母の和歌とが、私の家庭における一つの面白い対立であった。ある時など、母が俳諧味の取りとめなきを指摘すると、父は和歌に面白味のないことを非難するという、文芸的論争が起ったことがある。

 それから父は、俳諧の歌仙(つけあい)の実例を挙げて、その幽かすかな心持や面白味を懇々と説き立てたが、母にはとうとう何のことやら分らなかったらしい。お蔭で私には初めて少し「つけあい」というものの味わいが分った。しかしまたこういうこともあった。維新の際、小倉藩の志士何某なにがしが京都で詠んだという和歌に、「幾十度いくそたび加茂の川瀬にさらすとも、柳は元の緑なりけり」というのがあった。ところが和歌の先生は、上の句の「とも」に対して、下の句の結びは「なるらん」でなければ法に合わぬと言って、さように添削したが、作者自身としては、たとい将来のこととは言え、少しも疑いのない堅い決心であるから、「なるらん」などという生ぬるい言葉はいさぎよくないと言って、あくまで「なりけり」を固持していた。父と母とがこの話をしあった時、二人の意見は全く一致して深く作者の意見に同感していた。

 父と母とが面白くない(と言うよりはむしろ滑稽な)言い争いをしていたのを一つ覚えている。母も煙草が好きで、よく長煙管ながぎせるでスパスパやっていたが、例の不器用なたちとして、その火皿に刻みを詰める時、指先でそれを丸めることが足りないので、長い刻みの尾が煙管の先にぶらさがっていることが毎度であった。ある時、父はそれを見るに堪えなかったのだろう、いかにも憎々しそうな、噛んで吐き出すような口調で、そのだらしなさを罵倒した。すると母もムッとして、それが自分の生れつきであること、五十年来の習慣であること、今さらそれを非難されても仕方のないことなどを、すねた言葉でブツブツと返答した。この争いに対しては、私は子供心にも、深く両方に同情した。

 ある年の春、つつじの花の盛りの頃、裏の山の裾にござを敷いて、そこに夕めしのお膳を持ちだし、母の自慢のえんどうままで、父は例の一合を楽しみつつ、つつじ見の小宴を催したことがある。それらは父がアジをやるのであるか、それとも母の思いつきであったのか知らないが、とにかく私には嬉しい一家の親しみであった。また、父と母とは、ジャモクエの年寄り夫婦にも似ず――あるいは無邪気な年寄り夫婦らしくと言った方が却っていいかも知れぬが――ある時など、木箱に竹の棒を突きさして、それに紙を張り、糸をつけて、三味線のおもちゃを拵えて見たりしていた。しかしそのおもちゃでは満足が出来なかったと見えて、後にはお隣りから本物を借りて来て、二人でツンツン言わせていたこともある。その歌、「高い山から谷底見れば」「摺り鉢を伏せて眺めりゃ三国一の」などはあえて奇とするに足りないが、「芝になりたや箱根の芝に、諸国諸大名の敷き芝に、ノンノコセイセイ」「コチャエ、コチャエは今はやる、若わかい衆しゅが、提灯ちょうちん雪駄せったでうとてゆく」などの古色に至っては、けだし読者の一粲いっさんを博するに足りるだろう。

 母は滅多に外出しなかったので、たまに前の山に千振せんぶり摘つみなどに行く時、私らはそれを大変な珍しいことのようにして、そのあとについて行った。母は千振を摘んでは蔭干しにしておいて、毎朝それを茶の中に振りだして飲むのであった。千べん振ってもまだ苦いと言うのが恐らくその名の出処であろう。私もいつかその真似をして、あの苦い味わいを、何か少し尊い物のように思っていた。後に私が人生のある事件を批評する時、「苦底の甘味」という言葉を用いたことがあるが、それは千振の味に思い寄せたのであった。また千振という草のツイツイと立っている姿、あのささやかな白い花の形などが、何とも言われぬしおらしさを私に感じさせた。そして、それも恐らく、母から開かせられた目の働きであったろうと思う。

母亲又唱了几首和歌。这只是在故乡的周围自然培养出来的,我不认为母亲有那样的才能。但是,父亲的俳句与母亲的和歌,在我家却是一个有趣的对立。有一次,母亲指出俳谐的语无伦次,父亲则指责和歌无趣,引发了一场文学争论。

后来,父亲举了俳谐歌仙的实例,恳切地向母亲解释其幽微的心境和趣味,但母亲似乎始终不明白。托他的福,我第一次懂得了“陪酒”的滋味。但也有这样的事。维新时期,小仓藩的志士某某在京都吟咏的和歌中有这样一句:“数十次漂洗加茂川濑,柳叶依旧翠绿”。然而,和歌老师说,对于上句的“友”,下句的结尾必须是“不”才合乎法律,于是进行了修改。作为作者本人,即使是将来的事,也是毫不怀疑的坚定决心吗?他说“成兰”这种不温不火的词不太爽快,坚持要“成兰”。父亲和母亲谈论这个话题时,两人的意见完全一致,对作者的意见深有同感。

我记得父亲和母亲有一场无趣(不如说很滑稽)的争吵。母亲也喜欢抽烟,经常拿着长烟盒吧嗒吧嗒地抽烟,但她还是那个笨手笨脚的人,每次往火盘里装烟丝时,都不够用指尖把烟丝揉成一团,所以烟丝的长尾巴总是挂在烟管的前端是这样的。有一次,父亲大概是看不下去了,用一种恨得咬牙切齿的口气痛骂他的散漫。母亲也生气了,用闹别扭的语言嘟嘟囔囔地回答:这是我的天性,五十年来的习惯,事到如今指责我也没用。对于这场争斗,我幼小的心灵也深深地同情双方。

有一年春天,杜鹃花盛开的时节,父亲在后山的山脚下铺上草席,端上晚饭,端上母亲引以为傲的豆豉,举办赏杜鹃花的小宴,享受那一合。我不知道这些是父亲做的,还是母亲临时起意的,总之,一家人的亲近感让我很高兴。另外,父母也不像慈爱的老夫妇——或者说是像天真无邪的老夫妇反而更好——有时,他们会在木箱里插上一根竹棒,贴上纸,系上线,用三弦琴弹奏。沏了杯茶。但他似乎不满足于这个玩具,后来还从邻居那里借来真品,让两人一起炫耀一番。他的和歌,“从高山眺望谷底”“伏折钵眺望三国第一”等,都不足为奇,“变成草坪了,在箱根的草坪上,在各国大名的草坪上,悠闲自得”“kocha, kocha现在很流行,年轻。年轻人背着灯笼和雪屐走了”等古香古色的画面,足以博得读者的一粲吧。

母亲很少外出,偶尔去前面的山上摘千振子时,我们也会跟在她后面,当作一件很稀奇的事。母亲摘千振放在阴干处,每天早晨把它撒在茶里喝。摇一千遍还苦,这恐怕就是它名字的由来吧。曾几何时,我也学过他的样子,觉得那苦涩的味道是一种珍贵的东西。后来我在评论人生的一件事时,曾用过“苦底的甜味”这个词,那是联想到千振的味道。还有一种叫千振的小草挺立的姿态,那小小的白色花朵的形状,都让我感到一种难以言喻的娴静。而且,我想那恐怕也是母亲睁开的眼睛在起作用吧。

 ある日、母が珍しく裏の山にナバ(茸きのこ)を取りに出た。兄と私とが嬉しがってその前後に飛びまわった。すると猫も跡からやって来て、手柄顔に高い松の木に駈けあがったりした。「猫までが子供と一しょに湧きあがる!」と、母は面白そうにその姿を眺めていた。湧きあがるとは、いい気になってふざけ散らすと言ったような意味。私は、前にも言った通り、母に教えられて大の猫好きであったが、母が毎度話して聞かせたところに依ると、私の幼い頃、キジという猫がいて、それが若様に対する老僕と言ったような格で、一度私の手にかかると、まるで死んだようになって、叩かれようと、攫つかまれようと、引きずられようと、自由自在になっていた。しかし次の猫は、それほどのおもちゃにならなかった。彼は冬になると、私の寝床で寝るよりも、母の寝床に寝ることを選んだ。けれども、私が是非とも彼を抱いて寝ることを主張するので、母はいつも、彼を連れて来て私の寝床に入れて、蒲団の外から叩きつけるのであった。すると彼も往生して、私の寝入るまで、ジットそこで我慢し、あとでソウット母の方に行くのであった。

 母はまた、観音様信仰で、毎晩お灯明をあげては、口の中で観音経か何かを誦ずしながら拝んでいた。そして毎月十七日の晩には、必ず錦町の観音堂に参った。私も必ずそのお供をした。その晩、観音堂では、三十三体の観音様に一々灯明を供えて、いかにも有難そうに見えていた。私は、(後に記す通り)仏教に対してはあまり同情を持たなかったが、母の故を以て観音様は少し好きだった。

 今一つ母についての思い出。これはよほどまだ私の小さい時のこと。私が炬燵の中で――母と私とが一緒に寝る広い寝床の中で――目をさますと、母は既に起き出でて竈くどの前で飯を炊いていた。私が何か言うと、「起きたかな、お目ざましをあぎょう」と言って母は竈くどの熱灰あつばいの中に埋めておいた朝鮮芋を取りだして、その皮をむいて持って来てくれた。黄色い美しい芋の肉から白い湯気がポカポカと立っていた。どうして、こんな光景が、特に私の記憶に残っているのか分らないが、恐らくその蒸し焼の芋の味が特別にうまかったのだろう。

 今一つ、これは私が母に対する唯一の反感。ある時、私が何かのことで、さんざん母にグズっていた。母も大ぶん怒って私を叱っていた。すると、母はちょうどお膳ごしらえをしていたのだが、とつぜん醤油つぎを引っくりかえした。赤黒い醤油がたくさん畳の上にこぼれた。母は慌ててそれをツケギで掬すくい取るやら、そのあとを雑巾ぞうきんで拭くやら(恐らく父に内証にするため、大急ぎで)していたが、「こんなことになるのも、お前があんまり言うことを聞かんからじゃ」とまた私を叱りつけた。私は非常に不平だった。私が言うことを聞かんのは悪いだろう。しかし、醤油つぎを引っくりかえしたのはまさに母のそそうである。自分のそそうの責任を私に塗りつけるのはひどい。私はそんな意味で大いに憤慨した。我が尊信する母、我が敬愛する母といえども、腹立ちまぎれには、やっぱりこんなことを言うのかと。

 考えて見るに、私は父と母とから、ちょうど半々ずつくらい性質を遺伝したらしい。体質の方では、父も小さいし、母も小さいし、そして私も小さいのだから、文句はない。しかし、私が小さいながらやや頑丈な処があるのは、母の方から来たのかとも思う。母は強いという方ではなかったが、母の弟たる「志津野のおじさん」などは、ずいぶん大きな、しっかりした体格であった。性質の方では、私に多少の才気があるのは父の方から来たのであり、幾らか学問好きで、そして少しゆっくりしたようなところがあるのは、母の方から来たのだと思われる。私は大体において善良な正直な男だと信じているが、それはまさに父母両方から来ている。もし私に、けちくさい、気の小さい、小事にアクセクするというところが著しく現われているとするなら、それは父の方からの欠点である。もしまた私に、不器用な、不活溌な、優柔不断なところが大いに存在しているとするならば、それは母の方からの弱点である。

 母の家には昔大きな蜜柑の木があったが、その蜜柑が熟する頃になると、母の父(即ち私の祖父)は、近処の子供を大ぜい集めて、自分は蜜柑の木の上に登って、そこから蜜柑をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、そして子供が喜ぶのを見て面白がっていた。私はそんな話を、花咲爺の昔話と同じように聞いていたのだが、またどこやらにただの昔話とは違って、自分の祖父にそんな面白い人があったという誇りを感ずる点があったように思う。

 父方の祖父については、私は何の知るところもない。思うにそれは、祖父が早く死んだので、幾許いくばくも父の記憶に残っていなかったためだろう。父方の祖母はかなりシッカリした婦人であったらしい。早く夫に別れて、年の行かぬ二人の子供を守もり立てて行ったのは、容易なことでなかったろう。その頃、江戸に行っていた私の父に対して、国元の祖母から送った手紙が一通、私の手に残っているが、その筆跡もなかなか達者だし、文句もずいぶんシッカリしている。また、祖母の妹(私の父の叔母おば、私の大叔母)は、私もよく知っていたが、これがなかなかただの女でなかった。変屈者へんくつもの、やかまし屋として、あちこちで邪魔にされた場合もあったようだが、私から見ると、ずいぶん面白いところのある、よいおばさんであった。この人が大阪から私の父によこした手紙が残っているが、「黄粉が食いとうても臼がのうてひけぬ、今度来るなら臼を持って来ておくれ、うんちんはおれが出す」と言った調子である。明治二十二年に、八十に近いお婆さんが、大胆な言文一致体で手紙を書いていたのである。これらのことも、私に取っては確かに多少の誇りであった。

有一天,母亲罕见地到后山去采蘑菇。我和哥哥高兴地在前后飞来飞去。于是猫也从遗迹里跑了过来,一脸得意地爬上高高的松树。“连猫都和孩子一起涌上来了!”母亲饶有兴趣地望着他的身影。所谓涌上来,就是得意忘形地开玩笑的意思。我以前也说过,母亲教我非常喜欢猫,母亲每次都讲给我听,我小时候,有一只叫野鸡的猫,它就像是少爷的老仆人,一旦被我抓到,简直就像老仆人一样。像死了一样,被打也好,被抓也好,被拖也好,自由自在。但是接下来的猫却没有变成什么玩具。到了冬天,他会选择睡母亲的床,而不是睡我的床。但是,我坚持要抱着他睡觉,母亲总是把他带到我的床上,从被子外面摔他。于是他也往生了,一直忍耐到我睡着为止,之后才悄悄走向母亲。

母亲也信仰观音,每天晚上都会点上灯,口中念念有《观音经》或其他什么东西,同时进行参拜。每个月十七日晚上,他都会去锦町的观音堂。我也一定会陪他去。那天晚上,观音堂里一一供奉着三十三尊观音,显得十分难得。我(如后所述)对佛教不怎么同情,但因为母亲的缘故,对观音有点喜欢。

关于母亲的回忆。这还是我小的时候的事。我在被炉里——母亲和我一起睡的大床上——醒来时,母亲已经起床在灶前煮饭了。我说了句什么,母亲说:“起来了吧,我醒了。”她取出埋在炉灰堆里的朝鲜芋,剥了皮拿来。黄色美丽的芋头肉冒着热气。我不知道为什么这样的情景会给我留下特别深刻的印象,大概是因为那蒸红薯的味道特别好吃吧。

这是我对母亲唯一的反感。有一次,我为了什么事跟妈妈闹脾气。母亲也很生气地骂我。这时,母亲正在准备饭菜,突然把酱油碗打翻了。许多黑红色的酱油洒在榻榻米上。母亲慌忙用蘸料捞起,又用抹布擦了擦(恐怕是为了瞒着父亲),又骂我说:“事情会变成这样,都怪你不听话。”说。我非常不满。我不听话是不对的吧。但是,把酱油次翻过来的正是母亲的曾奏。把自己的责任转嫁给我太过分了。我在这个意义上非常愤慨。即使是我所尊崇的母亲、我所敬爱的母亲,在一怒之下也会说出这种话。

仔细想想,我似乎从父母那里各遗传了一半性格。在体质方面,父亲小,母亲小,而我也小,所以没什么可抱怨的。但是,我虽然个子小,却有些结实,可能是从母亲那里学来的吧。母亲并不强壮,但她的弟弟“志津野叔叔”体格相当壮实。在性格方面,我多少有些才气是父亲的遗传,而我多少喜欢学习,多少有些慢性子,则是母亲的遗传。我大体上相信我是一个善良正直的人,但这恰恰来自父母双方。如果我明显表现出小气、胆小、为小事奔波的性格,那是父亲的缺点。如果我有很多笨拙、不活泼、优柔寡断的地方的话,那一定是来自母亲的弱点。

母亲的家里从前有一棵很大的橘子树,每当橘子成熟的时候,母亲的父亲(也就是我的祖父)就会召集附近的一大群孩子,自己爬到橘子树上,从树上撕下橘子扔出去,撕下橘子扔出去,然后是孩子看到随从高兴,觉得很有趣。我把这些故事当作花咲爷爷的往事来听,但又觉得有些地方不同于一般的往事,让我为自己的祖父有这么有趣的人而感到自豪。

我对祖父一无所知。想来,那是因为祖父去世得早,对父亲的记忆也就所剩无几了吧。父亲的祖母似乎是个相当稳重的妇人。早早地离开丈夫,照顾两个年幼的孩子,应该不是件容易的事吧。当时老家的祖母寄给去了江户的父亲的一封信留在我的手上,笔迹很工整,字句也写得很清楚。另外,祖母的妹妹(我父亲的姑姑、我的大姨)我也很熟悉,她不是个普通的女人。虽然她有时也会被当成怪胎、爱管闲事的人到处捣乱,但在我看来,她是个很有趣的好阿姨。这个人从大阪寄给我父亲的信至今还保存着,信中写道:“想吃黄豆粉,但磨不了臼,下次来的话,把臼带来,车费由我出。”明治二十二年,一位年近八十的老太太大胆地用言文一致体写信。这些事对我来说确实多少有些自豪。

婦人の天職

堺利彦

妇女的天职

    一

 福田英子女史足下。婦人はよろしく婦人の天職を守るべしとは、多くの学者、文人、説教者、演説家等より我々の常に承るところなるが、そのいわゆる天職とははたしていかなるものなるか、それがハッキリと定められざるかぎりは、いかに温良、貞淑、従順なる今の世の婦人といえども、これを守らんことすこぶる困難なるべし。ゆえに小生はここに少しく婦人の天職を考察して、『世界婦人』に献じ、いささか足下の参考に供せんと欲す。

 ある人は、婦人の天職は結婚して夫に仕うるにありと言えり。小生考うるに、結婚もし天職なりとせば、そは婦人のみの天職にあらずして、また必ず男子の天職ならざるべからず。しからば何もとり立てて婦人の天職というほどのことなく、ただこれ人間の天職、動物の天職と言うべし。しからば夫に仕うるが、はたして婦人の天職なるかと考うるに、小生はすこぶるその理由を発見するに苦しむものなり。人類社会の古き歴史を検するに、母系制度と称して女子が一家一族の長たりし時代もあり。その時代には女子のために特定の夫という者なく、子はあまたありとてもその父のだれだれなるやは判然せざりしなり。この辺のことについては石川旭山(いしかわきょくざん)君が貴紙の別項において詳細に論述せらるるよう承りたれば、小生は長々しく申し上げざれども、とにかくかかる時代において、婦人の天職は夫に仕うるにありと言いえざるは明白のことなるべし。しからば婦人が夫なる者に属してこれに仕うるに至りしは、比較的近代のことにして、僅々きんきん数千年間の現象なり。もしこれをしても天職と言いうべくんば、日本男子の天職は年寄りて隠居となるにありとも言いうべし。何となれば、数百年の永き月日の間、日本の男子は年寄りて後、その家督をせがれに譲りて隠居するの風習なりければなり。そこで小生の考うるところによれば、隠居の風習が人間社会におけるただ一時の現象にして、遠き過去にもそのことなく、現在にもすでにそのことなきがごとく、婦人が夫に仕うるということも、やはりただ一時の現象にして、遠き過去にもそのことなく、現在にはなおしばらくそのこと残れりといえども、将来には必ず消えてなくなるべきものなり。さればかようなることを天職などと称して、しいて婦人を縛りつけんと欲するは、実に不都合窮まる男子の得手勝手と言わざるべからず。

福田英子女士足下。我们常听许多学者、文人、布道者、演说家等说,妇女应当坚守妇女的天职,但所谓天职究竟是什么,在没有明确规定的情况下,是不可能的。即使是当今善良、贤淑、顺从的妇女,若不遵守这些规矩也是相当困难的。因此,鄙人在此稍微考察一下妇女的天职,献给《世界妇女》,以供足下参考。

有人说,女人的天职是结婚侍奉丈夫。我想,如果婚姻是天职,那不仅是妇女的天职,也必定是男子的天职。所以,这并不是妇女的天职,只是人的天职、动物的天职。那么,侍奉丈夫,果真是女人的天职吗?小生很难发现其中的理由。在人类社会的古代历史中,也有所谓母系制度,女子为一家一族之长的时代。那个时代的女子没有固定的丈夫,有很多孩子,也不知道她的父亲是谁。关于这方面的事,请石川旭山君在贵报的另一项中详细论述,鄙人就不多说了,总之,在那样的时代,妇人的天职是侍奉丈夫。当然不能说。那么,妇女从属于丈夫而侍奉丈夫,这是比较近代的事情,仅仅是几千年来的现象。如果这样做也能说是天职的话,那么日本男人的天职也可以说是年老隐居。因为,在数百年的岁月里,日本的男子老了之后,有把家业传给儿子隐居的习惯。因此,据鄙人的想法,隐居的风俗在人类社会中只是一时的现象,就像很久以前没有,现在也没有那样,妇女侍奉丈夫也只是一时的现象。即使遥远的过去没有,现在暂时还残留着,将来也一定会消失。把这样的事情称为天职,硬要束缚女人,实在是不合适的男人的自私。

    二

 ある人はまた、婦人の天職は家を守るにありと言えり。これはあたかも犬の天職は門を守るにありというに同じ。犬はもと山野にありて自由独立の生活を送りしものなり。その時には守るべき門というものもなかりしなり。後ようやく人間に圧伏せられて、家畜という境涯に落ちたればこそ、ここに初めて門を守るという役目を仰せ付けられたる次第なれ。いずくんぞこれをもって犬の天職と言うべけんや。婦人が家を守るもまたかくのごとし。男子に圧伏せられてその奴隷どれいたるがごとき境涯に落ちたればこそ、ついにかかる迷惑の役目をも背負わされたるなれ。天職などとは実によいつらの皮と言うべし。

 ある人はまた、婦人の天職は炊事、裁縫にありと言えり。これはほぼ前項と同様の説にして、また実に人をばかにしたる話と言うべし。昔封建時代の武士は、米を作るは百姓の天職なりと言いたりき。いかにも田を耕し、苗を植え、肥やしをくみ、稲をこくがごとき労苦のことは、これを百姓の天職なりとして彼らの手に打ち任せ、自分らは大小をさし、かみしもをつけぶらぶらとしてその米をとり食らうこと、武士にとりてはすこぶる好都合なりしなるべし。それと同じく、炊事、裁縫、洗たく、そうじなど、すべて日常生活のめんどうなることは、いっさいこれを婦人の天職なりとして彼らの手に打ち任せ、自分は出入自在にして、勝手次第にほうつきあるくこと、男子にとりてはすこぶる好都合のことなるべし。しかるにあるお人よしの婦人のいわくに、料理などはドウしても最愛の妻の親切なる手に成りたるものならでは、十分に男子を満足せしむることあたわざるべし。ゆえにわたしらはどこまでも料理等の事をもって婦人の天職と思うなりと。これいかにも殊勝千万のお心掛けと申すべし。小生なども男子の片はしであるからには、かようなる殊勝の婦人に対し無限の感謝をこそ呈すべけれ、悪口雑言などユメ申すべきはずにはあらねど、さりとてはここに不思議なることこそあれ。そはかようなる殊勝の心掛けが婦人の側にのみありて男子の側に無きの一事なり。小生の考うるところにては、料理などはドウしても最愛の夫の親切なる手になりたるものならでは、十分に婦人を満足せしむることあたわざるべし。ゆえに僕らはどこまでも料理等の事をもって男子の天職と思うなりと、一人くらいは言いだしそうなものと思うなり。しかるに天下かつてこの事なきを見れば、この料理天職説も畢竟ひっきょうは男子の得手勝手より婦人に塗りつけたるものにして、婦人は男子の意を迎えんがため、もしくは知らず知らず男子の意を受けて、ついに自らしか言うに至りたるものなるべし。

 小生のさらに考うるところによれば、仮に水をくむことが婦人の天職なりとしたところで、水道の給水法が完成せられて、どこの家においてもネジを一つひねればこんこんとして水があふれ出るという場合になれば、婦人の天職はほとんど無くなってしまうにあらずや。また仮に飯をたくことが婦人の天職としたところで、おいおい飯炊法が改良せられて、各戸別々にかまどを据えつくるは不経済のはなはだしきものということになり、一〇〇軒も二〇〇軒もが一緒になり、もしくは一町内、一村落が申し合わせて、大仕掛けの共同飯炊所を作るの日ありとすれば、数百人の細君が数人ずつかわるがわる飯炊当番になるとしても、わずかに一〇〇日に一度だけしかその天職を尽くしえざることとなるにあらずや。さりとてはあまりに軽少なる婦人の天職というべし。されば炊事といい、裁縫というがごとき、その大部分はむしろ器械の天職にして、決して人間の天職にあらず。今日においてこそは、社会組織の不完全なるがゆえに、かようなるくだらぬことが人間の手仕事となりおれども、将来の進歩せる社会においては、たいていのめんどうなることはみな器械の働きとなり、人間はただこの器械を用いて僅少きんしょうの骨折りをなすにすぎざることとなるべし。しかしてその僅少の働きは、女子のなすべきものとも、男子のなすべきものとも限らず、だれにてもただ便宜に従いてこれに当たるべく、女子の天職などというものはほとんど皆無に帰するなるべし。

有人说,女人的天职是守家。这就好像狗的天职是守门一样。狗本来生活在山野里,过着自由独立的生活。到了那个时候,就没有什么可守的门了。正因为后来被人类压制,沦落为家畜,才被赋予了守卫城门的职责。这就是狗的天职。妇女守家亦是如此。正因为被男人压制,沦落到奴隶的境地,才不得不背负如此麻烦的任务。所谓天职,其实就是一张好皮。

有人还说妇女的天职是做饭、裁缝。这种说法与前项基本相同,也可以说是愚弄人的话。从前封建时代的武士常说种米是百姓的天职。像耕田、育苗、施肥、打稻子这些劳苦的事,他们认为这是百姓的天职,交给他们去做,自己则大小不一,蘸上纸霜,悠闲地吃着米,对武士来说。这实在是太好了。同样,做饭、缝纫、洗衣、打扫等日常生活的麻烦事,也都视为妇女的天职,交给他们自己去做,自己出入自如,随便盆走。真是太好了。然而,有一位老实巴交的妇人说,做饭这种事,如果是心爱的妻子亲手做的,就足以让男人满足。因此,我们始终认为烹饪是妇女的天职。这实在是值得钦佩的心意。鄙人身为男子汉,理应对这位值得钦佩的妇人表示无限的感谢,不该说她的坏话,但这实在令人感到不可思议。这种值得钦佩的心,只有女人有,男人却没有。在鄙人看来,做饭这类东西,无论如何都要由心爱的丈夫亲手做,才能充分满足妇人的需求。因此,我们总觉得做饭是男人的天职,至少有一个人会这么说。然而,从天下没有这种事来看,这种料理天职说终究是由男人自私自利地强加给女人的,女人为了迎合男人的心意,或者在不知不觉中接受了男人的心意,最终变成了自己。说得也够了。

根据鄙人的进一步设想,假如打水是妇女的天职,那么自来水的供水法完善了,家家户户只要拧一个螺丝,水就会汩汩溢出来,那么,如果妇女的天职不是几乎消失了吗?另外,假设烧饭是妇女的天职,随着煮饭方法的不断改良,各家各户分别设置炉灶是非常不经济的,所以一百户、二百户一起烧饭,或者一町内,如果一个村落有一天商量要建立一个大型的公共伙房,即使有几百个妻子轮流值班做饭,也不过是一百天才能尽一次天职。虽说如此,这也可以说是轻贱女人的天职。那么,做饭也好,裁缝也好,大部分都是机械的天职,决不是人的天职。只有在今天,由于社会组织的不完善,这种无聊的事才成为人的手工艺;而在将来进步的社会中,大多数麻烦的事都是机器的劳动,人只是这个机器而已。只不过是做了一些微不足道的努力而已。而且那一点点的劳动,既不是女子所能做的,也不是男子所能做的,谁都只是为了方便而做,几乎没有女子的天职。

    三

 かようのことを申さば、論者あるいは大いに小生を責めていわん。なんじいかに奇矯の言をなして婦人の天職を皆無に帰せしめんと欲するも、妊娠、分娩ぶんべん、育児のことに至っては、ついにこれを婦人の天職にあらずと言うをえざらんと。いかにもしかり。このことばかりは器械でらちをあけるという訳にもゆかず、男子が分担するという訳にもゆかず、小生といえどもこれをもって高等女性動物の天職なりと認むるの外なし。しかれども小生はただこの一事あるがゆえに、世の多くの論者のごとく、婦人をもって政治上もしくは社会上における諸種の任務にたえずとなし、または高尚深遠の学芸に適せずとなすの理由を発見することあたわず。いかにも妊娠、分娩、育児のことは婦人の大任務にして、生殖事業の八、九分までは婦人の分担に属したる訳なれば、他の諸事業の八、九分まではこれを男子の任務とするの道理に似たり。しかれども文明社会における人生の事業は、生殖事業と他の諸事業との二種にわかつべきものにあらず。小生の考うるところによれば、生殖事業と生活事業と、および他の高尚なる諸事業との三種にわかつべきものなりと信ず。されば婦人がその生理上の自然として生殖事業の八、九分を分担するに対し、男子はよろしく生活事業(すなわち直接衣食住の事業)の八、九分を分担すべし。しかして二者以外、他の高尚なる諸事業は、男女の別なくおのおのその適するところに従ってその任務に服すべし。たとえば、男子は米を作り、女子は子を産み、しかして男女共にその余暇余力をもって文学、美術、音楽、宗教、哲学、科学等のことを学ぶべしというなり。論者はなおあるいはいわん、仮になんじの言をよしとするも、女子は子を産み子を育つるにおいて、おそらくは多くの余力なからんと。今日においてあるいはしからん。しかれども今日の女子が子を産み子を育つるにおいて余力なきは、あだかも今日の農夫が米を作るにおいて余力なきに同じ。もし将来の進歩せる社会において、農業が精巧なる器械の応用と多数人の組合とによって、それに従事する労働者に多くの余暇余力を存せしめうべきを信ずるならば、生殖事業もまた周到なる設備と多数人の助力とによって、それに従事する婦人に多くの余暇余力を存せしめうべきを信ぜざるべからず。試みに想像せよ。ここに一婦人あり、その生殖事業に従うのゆえをもって、しばらく他のいっさいの任務を免除せられ、またそのすでにやや成長せる子供の世話を免除せられ、常にその友人たる多くの男女の助力を受け、ことにその分娩の際には、十分なる設備と十分なる看護とを与えられ、分娩後にも哺乳ほにゅうの任務の外は多くの助力を受け、しかして必要なる哺乳時期を過ぐれば、幼児の世話もたいていは多くの人々の手に分担せらるることとならば、この婦人よし五、六人の子供ありたりとて、決して他の高尚なる事業に従うの余暇余力なきを憂いざるべし。論者なおあるいはいわん、そのように助力を与うる多くの友人あるを望みうべきかと。小生の考うるところによれば、婦人はことごとく多くの子供を産む者にあらず。ある者はわずかに一、二人を産み、ある者は全くこれを産まず。ゆえにそれらの婦人がその余力をもって他の多産婦人を助くるは、当然にしてまた自然の人情なるべし。ただ今日においては、人みな自己の生活に忙わしく、他を顧みるのいとまなしといえども、進歩せる将来の社会において、人みな生活の余裕を生じ、人と人と競争し、家と家と相隔つるの陋態ろうたいを脱するをえば、自然の人情はここに油然としてわき起こり、余力多き婦人は必ず走って多産婦人を助くべきは想像に難からざるべし。また男子の側より見れば、生殖の大事業を婦人に分担せしめたることとて、生活事業の余力をもってなるべく多く婦人を助け、その労苦を最少の度に減ぜしむべきはもちろんなり。

此番言论,论者或大加责备鄙人。她总想说些奇言怪语,把妇女的天职归为虚无,至于怀孕、分娩、育儿,就不能说这不是妇女的天职了。的确如此。这件事既不能用机械来解开,也不能由男子来分担,小生也只能承认这是高等女性动物的天职。然而,小生只是因为这件事,没有像世上许多论者那样,发现妇女不能胜任政治上或社会上的各种任务,也不能从事高尚深远的学术艺术的理由。怀孕、分娩、育儿都是妇女的大任务,生殖事业的八九分都是妇女的任务,其他各项事业的八九分都是男人的任务,道理是一样的。然而文明社会的人生事业,不应分为生殖事业和其他诸事业两种。据鄙人的考虑,我认为应该分为生殖事业、生活事业以及其他高尚的事业三种。因此,相对于妇女在生理上自然地承担生殖事业的八九分,男子则应承担生活事业(即直接衣食住事业)的八九分。除了这两者以外,其他高尚的事业,不分男女,都应该根据各自的适合来完成自己的任务。例如,男子种米,女子生子,男女都应利用闲暇时间学习文学、美术、音乐、宗教、哲学、科学等知识。论者又不这么说了,假设你说的好,女子生儿育女,恐怕没有太多的余力。今天也不一定。然而,今天的女子在生儿育女方面没有余力,就像今天的农夫在种稻方面没有余力一样。如果我们相信,在将来进步的社会中,农业应该通过精巧的器械的应用和多数人的合作社,使从事农业的劳动者有更多的闲暇时间,那么,生育事业也应该通过周到的设备和多数人的帮助。必须相信从事这些工作的妇女应该有充足的闲暇余力。尝试想象。这里有一位妇女,因为服从她的生殖事业,暂时免除了一切其他的任务,也免除了照顾她已经长大的孩子,她经常得到许多男女朋友的帮助,特别是分娩的时候。给予足够的设备和充分的护理,分娩后除哺乳任务外也会得到很多帮助,而一旦过了必要的哺乳时期,照顾幼儿的任务也大抵可以由许多人分担。妇女有五六个孩子,绝对不必担心没有闲暇余力去从事其他高尚的事业。论者甚至说,希望有这么多的朋友给予帮助。依鄙人所思,妇女并非都要多生孩子。有的只生一两个,有的根本不生。因此,这些妇女用自己的余力去帮助其他多产妇女,这也是人之常情。只是在今天,人们都忙于自己的生活,无暇顾及他人,但在进步的将来的社会中,如果人们都能产生生活的余裕,摆脱人与人竞争、家与家相互隔绝的陋习,自然就会这样的人情在这里油然而生,不难想象余力多的妇女一定会跑去帮助多产妇女。另外,从男人的角度来看,生殖的大事业让妇女分担,当然应该用生活事业的余力尽可能多地帮助妇女,最大限度地减轻她们的劳苦。

    四

 これを要するに、婦人の特殊なる天職はただ妊娠、分娩、哺乳の一事にあり。しかもそは決して婦人生涯の全力を要求するものにあらず。婦人はこの特殊なる天職の外に、男子と相並んで一般人間の天職を果たさざるべからず。ただし小生といえども、全く男女性情の差異を認めざるにあらず。婦人がその生殖作用の分業より来たる必然の結果として、生理上ある点において男子と異なる傾向を生ずるは、否むべからざる事実なるがごとし。小生は今日の男女間に見るがごとき性情の大差異は、社会の制度習慣より来たれる一時の現象なりと信ずれども、別に男女性の根本において多少の差別あるべきは、またこれを認めざるをえざるものあり。ゆえに男子が生活事業を分担し、婦人が生殖事業を分担し、それ以上にもって男女共に他の高尚なる諸事業に当たるの時、女子がその自然の性情に基づきて、あるいは多く美術におもむき、あるいは多く音楽に向かうというがごとき、男子に対して趣味ある差別を現ずべきは、小生の常に想像するところなり。さればこの点において、婦人の天職は美術にあり、婦人の天職は音楽にありなどとも称するをえんか。ただしそは将来の自由社会における自然の発展に見て、しかして後初めて言うべきの事にして、今日軽々にこれを予想し、断言すべからず。ことに男子が、その男子的偏見(よし自らはその偏見たることを意識せざるにもせよ)をもって、憶断に婦人の天職を云々するがごときは、実に許すべからざるの大罪なりと信ず。福田女史もっていかんとなす。

总而言之,妇女的特殊天职只有怀孕、分娩、哺乳这一件事。而且也绝不要求妇女一生全力以赴。妇女在这种特殊的天职之外,还必须和男人共同履行一般人的天职。不过,鄙人也不能不承认男女性情的差异。妇女作为生殖分工的必然结果,在生理上的某些方面与男子不同,这是不可否认的事实。鄙人认为今日男女间的性情大差异,是社会制度习惯所造成的一时现象,但在男女性别的根本上多少有些差别,则不得不承认。因此,当男子分担生活事业,妇女分担生殖事业,甚至男女共同从事其他高尚事业时,女子根据其自然性情,或多爱好美术,或多爱好音乐。像这样,对男子出现有趣味的差别对待,小生常有所想象。在这一点上,妇女的天职是美术,而妇女的天职是音乐。但是,始祖要看将来自由社会的自然发展,以后才应该说的事,今天却轻率地预测,不能断言。特别是男人,带着男人的偏见(即使自己没有意识到这种偏见),妄论女人的天职,实在是不可饶恕的大罪。福田女士可不行。

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