笑
寺田寅彦
从孩提时代就体弱多病的我,有一段模糊的记忆,自懂事以来,我几乎天天看医生。幸运地捡回一条命的今天,似乎也没有不患有某种疾病的时候。即使没有患上用简单的拉丁语命名的疾病,也很少有一天不觉得自己的身体是个麻烦的包袱。只是拜习惯所托,对它的明确自觉不会被牵着鼻子走。所以我有时会想,就像色盲的人缺乏对红绿颜色的观念一样,健康的身体也无法想象普通的安逸心情。最健康的人,如果这种愉快的心情是常态的话,只要不是病后,也不会觉得那是轻松或幸福吧。结果,在日常生活和工作上,像自己这样的人也好,健全的人也好,受身体自觉的影响也许不大,但如此根本的肉体差别不可能不在某个地方显露出来。
我接下来要坦白的奇妙经历,有多少是拥有正常健康的幸福人们所共通的,又有多少是与我这种人所独有的病态现象有关,很遗憾,我自己也不太清楚。没有。写这篇文章的动机,毋宁说是我对这一点的不可理解的怀疑。
我从小就有个怪癖,看医生的时候一定会想笑。这个毛病长大了也改不过来,现在那个痕迹还残留着。
说是生病,发烧四十度,或者身体某个部位有难以忍受的疼痛,这种情况下当然没那么从容了,但如果生病的自觉症状不那么强烈,可以坐起来接受诊察。来的时候会发生这种不可思议的现象。
首先,从医生按着脉搏看表的时候开始,身体的某个部位就开始产生类似这种笑的前兆的奇妙心情。那绝不是普通的奇怪的感觉。意识到自己伸出的手要保持原来的位置,随之产生一种紧张的感觉,与此同时,身体的某个部位也产生一种奇怪的痒痒的感觉。身体开始四处徘徊,勉强维持平衡的不稳定机械装置只要有一点多余的重量,整个机械就会失去平衡,到处都是可能会动摇。实际上身体也奇怪地摇摇晃晃,想要按住它,关键的手却抖动起来。
虽说是弱神经weeknerv,但问题在于这是“笑”的前奏。
吐舌头、缩咽喉结的喉结发出“啊”的一声不识趣的声音、翻白眼之类的小事,正好遇到失去平衡、松弛的危险间隙。还是不太清楚,不过根据场合的不同,即使是这样的事,也有给已经朝着“笑”的方向倒下去的心情带来轻微冲击冲动的效果。
我终于放松了心情,从探诊到听诊进行着,浑身上下那种无力的痒痒的感觉越发鲜明起来。就这样,在深呼吸的时候,胸口深深吸进空气,达到最高点,然后随着呼气而同时爆炸。这样一来,就会成为真正的“笑”。
没有任何可以笑的正当对象却笑,这是不合理的事,对医生的失礼自不必说,是非常可耻的事,这点连小时候的我都很清楚。坐在旁边的父母也很可怜。于是我尽量忍着,用力咬嘴唇,偷偷捏膝盖,可是眼泪从眼睛里流出来,这种“没有理由的笑”却怎么也止不住。这种努力的结果反而起到了加强防守的效果。但医生却总是若无其事地跟我一起笑。这样一来,在感到可以放开手笑的安心感的同时,想笑的感觉也瞬间消失了。
胸部皮肤的触摸会直接引起痒痒的感觉,所以我也不认为这是原因,但其实不然,我自己很清楚这与努力吸气有密切关系。。揉腹部的时候,我反而不想笑。
如果是让固定的医生看诊的话,倒没有什么大碍,但如果是第一次看医生的话,还没看就已经很痛苦了。越是在意结果反而越不好。除了让母亲在旁边尽快说明这个习惯,别无他法。只要听他解释,就再也不用笑了。
父亲经常教导他“男人不应该胡乱嘲笑一些无关紧要的事”,他自己也这么认为。何况没有任何正当理由笑却笑,只会被认为是不可原谅的婚外恋。,有一次,不知谁家的大婶对我说:“那是因为肚子上有什么地方不舒服吧?”我觉得好像听到了一种难得的福音。总觉得按自己的意志应该压制却压制不住的心灵的罪,被归结为无可奈何的肉体的罪。
所谓无事可笑的时候笑出来,并不仅限于去看医生的时候。
最伤脑筋的是必须去亲戚们郑重寒暄的时候。特别是对方遭遇不幸的时候,对方应该说的哀悼之词都是从家里学来的,我都背下来了,正要说出来的时候,突然又会发出那不可思议的笑声。那时的痛苦至今难忘。岂止是奇怪。
但在这种情况下接待我的许多阿姨们,即使还是孩子的我无缘无故地笑起来,似乎也不觉得有什么问题。反而对方也笑眯眯地说:“长这么大了。”听他这么一说,我觉得一点儿也不笑也无所谓了。与此同时,经常会有一种说不出的卑鄙的念头袭来。
这种“笑”的习惯到了中学时代也很难改掉。而且经常使自己感到痛苦和羞耻。坐在庄严的神祭席上的时候,听着严肃的音乐演奏的时候,听着长上训谕的时候,凡是要认真的心情好好地紧张身体的时候,一定会被这个侵袭苦恼是优秀的。在理发店用剃刀擦脸的时候也是这种情况,这种情况下危险的感觉会引发笑声。
随着年龄的增长,多少学会了观察自己内心的心理现象之后,不知有多少次想要寻求对这种特殊笑容的分析性解说。但那是自己能力所不能及的困难问题。结果常常得出自己神经运作方式存在异常缺陷的令人极不愉快、不安的结论。
对我来说,该笑的事和该笑的事到底怎么也不一致。例如,看到村里有名的痴呆男子在大街上做各种滑稽的表演和动作,我一点也不想笑。毋宁说是不快的悲伤的心情。看到他在酒宴上表演各种滑稽的才艺,兴致勃勃地笑着,反而觉得他很可怕,很厉害,实在不想一起笑。不过,如果说这只是一种平民主义的倾向,或许也不会成为什么问题。
然而,就在剧烈飓风肆虐的当口,人们稍微打开防雨窗,看着在可怕的天空中树干摇动枝叶纷纷飘落的景象时,却突然笑了起来。在暴风雨的声音中,他觉得自己的笑声非常自然。
或者门前河水泛滥淹没道路的时候,在没过膝盖的水里走着走着,冰冷的水从大腿渗透到腹部,浑身打了个寒颤,同时又像以前那样笑了突发。
无论哪种情况,通常在任何意义上都找不到值得笑的理由,但即便如此,笑的现象的出现也是无可奈何的。
另一种情况是,别人对自己有什么不利的误解,必须对此进行辩解的时候,渐渐发现那个辩解是无效的,在这种困难的情况下,突然就会引发那种笑点。。这是最糟糕的情况,但对我来说,用意志力阻止它是非常困难的,别人很难想象。
我原以为这种不合理的笑都是自己特有的病态精神现象,后来渐渐注意到,并不一定只局限于自己。也有两三个人说起小时候去探望不幸时笑出来的事,或是吃着本膳时笑出来的事。
有一次,一位中年妇女在神社森林里看守因火灾而被烧毁的财产,她一边和探病的人聊天,一边打从心底发出滑稽的笑声,而对方则以惊讶的表情注视着她。也见过。
在哪里读到过战争惨剧达到顶点时突然被笑声包围的异常现象。
这些或许都是近乎疯狂的例子,但不管怎样,综合考虑这些事实,一般来说,“笑”这一现象的功能和本质似乎能得到某种提示。
从生理上看,笑的现象是由于某种神经的刺激,腹部的某块肌肉发生痉挛性收缩,导致肺中的空气周期性地断续出来。呼出气息的作用和阻止呼吸的作用相互作用。然而,如果将某位心理学家的学说引申开来思考,正是因为产生了这种作用,“笑”才得以成立。不是因为笑所以好笑,因为好笑所以笑。
我第一次发现这种说法的时候,觉得多年来苦苦寻找的东西突然得到了,感到很高兴。
就算笑之前不可能先思考理由再笑,但笑了之后,至少无法解释那个行为,我觉得很抱歉。我开始觉得自己似乎可以解释这个困难的问题了。
把这位学者的说法和以前别人家的大婶说的“可能是因为肚子哪里不舒服吧”结合起来考虑就可以了。
以上列举的特殊“笑”的实例,都是精神和肉体应该感到一种紧张的情况。如果气力足够强,所谓的肚子很结实,能够均匀地保持那种紧张状态,那就没什么。但由于体弱多病、气力薄弱,无法忍受持续的紧张时,紧张会不知不觉地缓和。无意识间,试图将其勒紧的努力断断续续地进行着。比如刚会走路的小猫,踩着脚想要站起来的时候,全身上下摇摇晃晃的,也有相似之处。这种断断续续的紧张与松弛的交替,在生理上与“笑”的现象有着密切的相似之处。因此诱发了与笑相似的心情,从而引出真正的笑。难道不是这样的事情吗?这样想着,试着套用在自己身上,似乎某种程度上可以很好地解释。这句话在看医生深呼吸时最合适,其他场合也不太勉强。
当这个假设得到确认时,也就意味着确认自己神经的脆弱、肚子的脆弱、胆小怕事,这是一件极其不愉快和羞耻的事情。但与此同时,如果能在科学上查明其软弱的倾向,从而找到治疗方法,那也是一件令人欣慰的事。
实际上,像我这样的人,在健康状况良好、精力充沛的情况下,很少会出现这种不正常的笑,病后或精神疲劳后最明显,从这一点来考虑,这个假设至少相当合理。看来大有希望。
从这样的想法出发去研究一般的笑的现象怎么样呢?这是自然而然发生的下一个问题。
疯子和歇斯底里患者的病态笑容又如何呢?这首先是自己没有经验,手边也没有可以观察的材料,所以不太清楚。比如,伴随女人身体的某种变化而容易发生的歇斯底里,是由于郁积的活力没有充分发挥而引起的。如果是柯尔病现象,就不可能完全脱离前面假设的领域。
不过暂且不谈,试着思考一下更正常、更健康的笑容。
在这些笑中,最纯粹、最原始的,必须是野蛮人、文明人、小孩、大人都能共同笑出来的笑。我想知道野蛮人笑什么事,但这一点没有可参考的材料。不得不考虑孩子的情况。我认为小孩子的笑声中最典型的,首先是一些意外但不那么可怕的重大事件突然发生,轻微的惊愕即将消失时发生的。例如人偶的头掉下来,气球之类的东西意外破裂,架子上的东西掉下来等。第二,与此密切相关的是对事件的大预期被小实现背叛时的笑声。打开惊吓箱,妖怪因为破损而出不来,烟火没能做好,最后以噗哧噗哧结束,就是这种情况。这两种是不具备有关世态人情的预备知识而可能的,因而被认为是本能的原始的东西,但无论如何,这两种东西都是在精神和肉体的暂时或持续的紧张突然松弛时发生的。可以说是东西。仔细想想,紧接在紧张之后的松弛,伴随着余波般逐渐消失的松弛思潮的交错。但松弛极其缓慢地来的情况似乎并非如此。
有惰性的东西从它的正常位置被拉出来,当它离开的时候,使它回到它的正常位置的力就会发生振动,这在物质界是非常普遍的现象。运动方程式很简单,因为惰性在许多情况下是恒动的,弹力与位移显示位置成正比。但是,要将这种类型延伸到神经的作用上,就非常困难了。假设某物的位移是正数表示紧张状态,负数表示弛缓状态,如果不知道这个“物”是什么,就无法知道它的质量和弹力。因此,在允许数学处理之前,有太大的空隙。
尽管如此,在从生理和心理角度思考笑的现象时,这种力学的类型类比以非常有力的暗示激发了我的想象。我不得不认为,生理与心理之间的桥梁正与这个问题有关。
把它作为一种工作原理来看待时,由此演绎出各种或然性的概括性结果。例如,容易笑的人和不容易笑的人的区别,让人联想到力学中“黏性”和“摩擦”等生理因素的存在。黏液质这个词就像某种启示似的在耳边回响。或者让人思考笑的断续“周期”与体质、气质的关系。另外,如果“笑”是人类特有的现象,那么在其他动物中,质量弹力摩擦的配合不满足周期运动的条件,振动就会变成无周期的aperiodic。
孩子的笑和孩子看不懂的大人的笑之间有连续的阶段。(A)尊严受损时的笑,(B)人性弱点暴露时的笑,这些并不一定都是恶意的Schadenfreude。这里也和某种放松紧张有关。
(C)愿望实现时的喜悦的笑容,也理所当然地属于这个假设的范围之内。
比较难的是(D)得意时的骄傲笑、(E)轻侮时的冷笑等。但是(D)中有(A)和(C)的混合,(E)中有(B)和(D)的复杂。
(F)有一种苦笑。这难道是把自己看作第三者时的(A)和(B)与把自己当作自己时的痛苦混合在一起的东西吗?
像这样各种各样的笑LMN……似乎可以导出这样的情况。但这样的问题已成为纯粹的心理问题,与肉体渐行渐远。这不是想对自己说的话。
这个“假设”只是为了解开自己从少年时代起对奇怪的“笑”的怀疑而考虑的。我并不是要强调这种想法的普遍性。但如果不包含至少多数人普遍的东西,我还是不能放心。
喜欢将事物系统化的人,容易对不属于系统的事实盲目。我不能断言我现在也没有这种倾向。这还得经过充分的考虑才知道,不过仔细研究一下,多少有可能成为东西。
读者中如果有专业学者,他也许会纠正我这个外行的想法。如果遇到有相同经验的外行,他可能会加入到同一个问题的追求中来。基于这样的想法,我写下了这篇既不忏悔也不论文的文章。全篇的内容成为一般读者“笑”的对象,也是不得已的。
(附记)这一稿大体写完了以后,得到柏格森的《笑》这本书来读。的确是一本有趣的书。这本书的作者认为笑都是有对象的,没有对象的笑就没有提及。并且认为对象是直接或间接的人类的东西,科学地大胆地提出许多使面孔、举动、境遇、性格变得滑稽的条件公式或规章之类的东西,并与实例进行对照说明正在做。以此为基础,讨论喜剧相对于悲剧以及一般艺术所具有的特殊之处,从目的论的立场来讨论笑的社会道德意义。
读着读着,我得到了各种有益的暗示,对作者的说法也产生了十二种怀疑。但是读这没有发生我需要取消或修改我写在这里的一些事。我的问题是从“无对象的笑”出发,寻找潜藏在笑的生理和心理中间的关键,而柏格森则完全脱离生理,只考虑纯粹的心理问题。
柏格森给出的种种笑点,与我所谓的“假设”并无矛盾之处,毋宁说有相当多正合我意的情况。而且在这本书快结尾的时候,发现有一节稍微涉及了笑与精神松弛的关系,多少感到安心。
关于这些读后的感想,我有很多想写的东西,但它们的性质与本稿不相融合,所以我决定留待其他机会再说。
(大正十一年一月,思想)
笑い
寺田寅彦
子供の時分から病弱であった私は、物心がついてから以来ほとんど医者にかかり通しにかかっていたような漠然ばくぜんとした記憶がある。幸いに命を取り止めて来た今日でもやはり断えず何かしら病気をもっていない時はないように思われる。簡単なラテン語の名前のつくような病気にはかかっていない時でも、なんとなしに自分のからだをやっかいな荷物に感じない日はまれである。ただ習慣のおかげでそれのはっきりした自覚を引きずり歩かないというだけである。それで自分は、ちょうど色盲の人に赤緑の色の観念が欠けているように、健康なからだに普通な安易な心持ちを思料する事ができないのではないかと思う事もある。もっとも健康な人は、そういういい心持ちが常態であってみれば、病後ででもない限りやはりそれを安易とも幸福とも自覚しないだろう。すると結局日常生活の仕事の上には、自分のようなものも健全な人も、からだの自覚から受ける影響はたいしたものではないかもしれないが、しかしこれほど根本的な肉体的の差別がどこかに発露しないはずはない。
それで、これから告白しようとする私の奇妙な経験がどこまで正常ノルマルな健康を保有している幸福な人たちに共通で、どこからが私のようなものに限っての病的な現象に連関しているかは、遺憾ながら私自身にもよくわからない。この一編を書くようになった動機はむしろこの点に対する私の不可解な疑念であると言ってもいい。
私は子供の時分から、医者の診察を受けている場合にきっと笑いたくなるという妙な癖がある。この癖は大きくなってもなかなか直らなくて、今でもその痕跡こんせきだけはまだ残っている。
病気といっても四十度も熱があったり、あるいはからだのどこかに堪え難い痛みがあったりするような場合はさすがにそんな余裕はないが、病気の自覚症状がそれほど強烈でなくて、起き上がってすわって診察してもらうくらいの時にこの不思議な現象が起こるのである。
まず医者が脈をおさえて時計を読んでいる時分から、そろそろこの笑いの前兆のような妙な心持ちがからだのどこかから起こって来る。それは決して普通のおかしいというような感じではない。自分のさし延べている手をそのままの位置に保とうという意識に随伴して一種の緊張した感じが起こると同時にこれに比例して、からだのどこかに妙なくすぐったいようなたよりないような感覚が起こって、それがだんだんからだじゅうを彷徨ほうこうし始めるのである、言わばかろうじて平衡を保っている不安定な機械メカニズムのどこかに少しのよけいな重量でもかかると、そのために機械全体のつりあいがとれなくなって、あっちこっちがぐらついて来るようなものかもしれない。実際からだが妙にぐらぐらしたり、それをおさえようとすると肝心の手のほうががくりと動いたりするのである。
弱い神経ウィークナーヴと言ってしまえばそれまでの事かもしれないが、問題はこれが「笑い」の前奏として起こる点にある。
舌を出したり咽喉仏のどぼとけを引っ込めて「あゝ」という気のきかない声を出したり、まぶたをひっくり返されたりするようななんでもない事が、ちょうど平衡を失ってゆるんでいるきわどいすきまへ出くわすためだかどうか、よくはわからないが、場合によってはこんな事でも、とにかくすでに「笑い」のほうに向かって、倒れかかっている気分に軽い衝撃インパルスを与えるような効果はあるらしい。
いよいよ胸をくつろげて打診から聴診と進んで来るに従って、からだじゅうを駆けめぐっていた力無いたよりないくすぐったいような感じがいっそう強く鮮明になって来る。そうして深呼吸をしようとして胸いっぱいに空気を吸い込んだ時に最高頂に達して、それが息を吹き出すとともに一時に爆発する。するとそれがちゃんと立派な「笑い」になって現われるのである。
何もそこに笑うべき正当の対象のないのに笑うというのが不合理な事であり、医者に対して失礼はもちろんはなはだ恥ずべき事だという事は子供の私にもよくわかっていた。そばにすわっている両親の手前も気の毒千万であった。それでなるべく我慢しようと思って、くちびるを強くかんだり、こっそりひざをつねったりするが、目から涙は出てもこの「理由なき笑い」はなかなかそれぐらいの事では止まらなかった。そのような努力の結果はかえって防ごうとする感じを強めるような効果があった。ところが医者のほうは案外いつも平気でいっしょに笑ってくれたりする。そうすると、もう手離しで笑ってもいいという安心を感じると同時に、笑いたい感覚はすうと一時に消滅してしまうのである。
胸部の皮膚にさわられるのが直接にくすぐったい感覚を起こさせるので、それが原因かと思われない事もないが、実はそうではなくて、それよりはむしろ息を吸い込もうとする努力と密接な関係のある事が自分でよくわかる。腹部をもんだりする時には実際かえってそう笑いたくならなかった。
かかりつけの医者に診みてもらう場合には、それほど困らなかったが、始めての医者などだと、もう見てもらう前からこれが苦になっていた。気にすればするほどかえって結果は悪かった。そばに母でもいてこの癖をなるべく早く説明してもらうよりほかはなかった。それを説明してもらいさえすれば、もう決して笑わなくてもいい事になるのであった。
「男というものはそうむやみになんでもない事を笑うものではない」というような事を常に父から教えられ自分でもそう思っていた。いわんやなんら笑うべき正当の理由のないのに笑うという事は許すべからざる不倫な事としか思われなかった。それで、ある時だれか他家のおばさんが「それはどこかおなかに弱い所のあるせいでしょう」と言ってくれた時には、何かなしに一種のありがたい福音を聞くような気がした。なんだか自分の意志によって制すべくして制しきれない心の罪が、どうにもならない肉体の罪に帰せられたように思われた。
いわゆる笑うべき事がない時に笑い出すのは医者に診みてもらう場合に限らなかった。
いちばん困るのは親類などへ行って改まった挨拶あいさつをしなければならない時であった。ことに先方に不幸でもあった場合に、向こうで述べるべき悔やみの言葉を宅うちから教わって暗記して行って、それをそのとおりに言おうとする時に、突然例の不思議な笑いが飛び出してくるのである。その時の苦しさは今でも忘れる事ができない。なかなかおかしいどころではなかった。
しかしそういう場合に私に応接した多くのおばさんたちは、子供の私がわけもなく笑い出してもそんな事はてんで問題にもならないようであった。かえって向こうでもにこにこして「たいへん大きくなった」などという。そんな事を言われてみると、もう少しも笑わなくともいいようになる。そうして同時になんとも言えない情けない自卑ヒューミリエーションの念に襲われるのが常であった。
こういう「笑い」の癖は中学時代になってもなかなか直らなかった。そしてそれがしばしば自分を苦しめ恥ずかしめた。おごそかな神祭の席にすわっている時、まじめな音楽の演奏を聞いている時、長上の訓諭を聴聞ちょうもんする時など、すべて改まってまじめな心持ちになってからだをちゃんと緊張しようとする時にきっとこれに襲われ悩まされたのである。床屋で顔に剃刀かみそりをあてられる時もこれと似た場合で、この場合には危険の感じが笑いを誘発した。
年を取るに従って多少自分の内部の心理現象を内察する事を覚えてからはこの特殊な笑いの分析的の解説を求めようとした事は幾度あったかわからない。しかしそれは自分などの力にはとても合わないむつかしい問題であった。結局自分の神経の働き方にどこか異常な欠陥があるのであろうという、はなはだ不愉快な心細い結論に達するのが常であった。
いったい私にとっては笑うべき事と笑う事とはどうもうまく一致しなかった。たとえば村の名物になっている痴呆ちほうの男が往来でいろいろのおかしい芸当や身ぶりをするのを見ていても、少しも笑いたくならなかった。むしろ不快な悲しいような心持ちがした。酒宴の席などでいろいろ滑稽こっけいな隠し芸などをやって笑い興じているのを見ると、むしろ恐ろしいような物すごいような気がするばかりで、とてもいっしょになって笑う気になれなかった。もっともこれは単にペシミストの傾向と言ってしまえば、別に問題にはならないかもしれないが。
そうかと思うと、たとえばはげしい颶風ぐふうがあれている最中に、雨戸を少しあけて、物恐ろしい空いっぱいに樹幹の揺れ動き枝葉のちぎれ飛ぶ光景を見ている時、突然に笑いが込みあげて来る。そしてあらしの物音の中に流れ込む自分の笑声をきわめて自然なもののように感ずるのであった。
あるいは門前の川が汎濫はんらんして道路を浸している時に、ひざまでも没する水の中をわたり歩いていると、水の冷たさが腿ももから腹にしみ渡って来る、そうしてからだじゅうがぞくぞくして来ると同時にまた例の笑いが突発する。
いずれの場合にも、普通いかなる意味においても決して笑うべき理由は見つからないが、それにもかかわらず笑いの現象が現われ来るのをいかんともする事ができなかった。
もう一つの場合は、人から何か自分に不利益な誤解を受けて、それに対する弁明をしなければならない時に、その弁明が無効である事がだんだんにわかって来るとする、そういう困難な場合に不意に例の笑いが呼び出される。これは最もぐあいの悪い場合であるが、それを意志の力で食い止める事は、とても他人に想像されまいと思われるほど私には困難である。
この種の不合理な笑いはすべて自分だけに特有な病的の精神現象ではないかと思っていたが、その後だんだんに気をつけて見ると、必ずしも自分だけには限らない事がわかって来た。子供の時分に不幸見舞いに行って笑い出した事や、本膳ほんぜんをふるまわれて食っている間にふき出したような話をする人も二人や三人はあった。
ある時、火事で焼け出されて、神社の森の中に持ち出した家財を番している中年の婦人が、見舞いの人々と話しながら、腹の底からさもおかしそうに笑いこけているのを、相手のほうでは驚き怪しむような表情をして見つめているのを見かけた事もある。
戦争の惨劇が頂点に達した時に突然笑いに襲われるという異常な現象もどこかで読んだ。
これらはむしろ狂に近い例かもしれないがしかしともかくもこんないろいろの事実を総合して考えると、一般に「笑い」という現象の機能や本質について何かしらあるヒントを得るように思う。
笑いの現象を生理的に見ると、ある神経の刺激によって腹部のある筋肉が痙攣的けいれんてきに収縮して肺の中の空気が週期的に断続して呼び出されるという事である。息を呼出する作用にそれを食い止めようとする作用が交錯して起こるようである。ところがある心理学者の説を敷衍ふえんして考えるとそういう作用が起こるので始めて「笑い」が成立する。笑うからおかしいのでおかしいから笑うのではないという事になる。
私が始めてこの説を見いだした時には、多年熱心に捜し回っていたものが突然手に入ったような気がしてうれしかった。
笑う前にその理由を考えてから笑うという事は不可能であるとしても、笑ってしまったあとで少なくもその行為の解明がつかないのは申し訳のない事であると思っていた。その困難な説明がどうやらできそうな心持ちがしだした。
それにはこの学者の説と、昔よそのおばさんが言った「どこかおなかに弱い所があるせいでしょう」という事とを合わせて考えてみるといいようである。
以上にあげた特殊な「笑い」の実例を見ると、いずれも精神ならびに肉体に一種の緊張を感じるべき場合である。もし充分気力が強くて、いわゆる腹がしっかりしていて、その緊張状態を一様に保持し得られる場合にはなんでもない。しかしからだの病弱、気力の薄弱なためにその緊張の持続に堪え得ない時には知らず知らず緊張がゆるもうとする。これを引き締めようとする努力が無意識の間に断続する。たとえばやっと歩き始めた子ねこが、足を踏みしめて立とうとする時に全身がゆらゆら揺れ動くのもこれと似たところがある。そういう断続的の緊張弛緩しかんの交代が、生理的に「笑い」の現象と密接な類似をもっている。従って笑いによく似た心持ちを誘発し、それがほんとうの笑いを引き出す。とこういうような事ではないだろうか。こう思って自分の場合に当たってみるとある程度まではそれでうまく説明ができるように思われる。医者に診みてもらって深呼吸をする時などには最も適切に当てはまるし、その他の場合でもあまりたいした無理なしに適用しそうである。
この仮説が確かめられる時は、自分の神経の弱さ、腹の弱さ、臆病おくびょうさの確かめられる時であるというのはきわまりなく不愉快な恥ずかしい事である。しかし同時にその弱さの素因がいくらか科学的につきとめられて従ってその療法の見当がつくとすれば、それはまたこの上もない心強い喜ばしい事である。
実際自分のようなものでも、健康のぐあいがよくて精力の満ちているような場合に、このような変則な笑いの出現する事はまれであって、病後あるいは精神過労の後に最も顕著な事から考えてもこの仮説は少なくともよほど見込みがありそうである。
このような考えから出発して一般の笑いの現象を研究してみたらどうかという事は自然に起こる次の問題である。
狂人やヒステリー患者の病的な笑いはどうであろう。これは第一自分の経験もないし、また観察すべき材料も手近にないからよくはわからないが、たとえば女のからだのある変化に随伴して起こりがちなヒステリーなどは、鬱積うっせきした活力が充分に発現されないために起こる病的現象だとすると、前の仮説の領域から全く離れたものとは思われない。
しかしそれはしばらくおいて、もう少し正常ノルマルな健全な笑いを考えてみる。
そういう笑いの中で最も純粋で原始的だと言われるのは、野蛮人でも文明人でも子供でもおとなでも共通に笑うような笑いでなければならない。野蛮人がいかなる事を笑うかという事が知りたいのであるがこれはちょっと参考すべき材料を持ち合わせない。やむを得ず子供の場合を考えてみた。子供の笑いの中で典型的だと思うのは、第一に何かしら意外な、しかしそれほど恐ろしくはない重大ではない事がらが突発して、それに対する軽い驚愕きょうがくが消え去ろうとする時に起こるものである。たとえば人形の首が脱け落ちたり風船玉のようなものが思いがけなく破裂したり、棚たなのものが落ちて来たりした時のがその例である。第二にこれと密接に連関しているのは出来事に対する大きな予期が小さな実現によって裏切られた時の笑いである。ビックリ箱をあけてもお化けが破損していて出なかったり、花火ができそこなってプスプスに終わったとかいうのがそれである。この二つは世態人情に関する予備知識なしに可能なものであって、それだけ本能的原始的なものと考えられるが、この二つともにともかくも精神ならびに肉体の一時的あるいは持続的の緊張が急に弛緩しかんする際に起こるものと言っていい。そうして子細に考えてみると緊張に次ぐ弛緩の後にその余波のような次第に消え行く弛張しちょうの交錯が伴なうように思われる。しかし弛緩がきわめて徐々に来る場合はどうもそうでないようである。
惰性をもったものがその正常の位置から引き退けられて、離たれた時に、これをその正常の位置に引きもどさんとする力が働けば振動の起こるというのは物質界にはきわめて普通な現象である。そして多くの場合においてその惰性は恒同であり、弾力は変位ディスプレースメントに正比例するから運動の方程式は簡単である。しかしこの類型を神経の作用にまでも持って行こうとすると非常な困難がある。かりにあるものの変位がプラスであれば緊張、マイナスであれば弛緩の状態を表わすとしたところで、その「もの」がなんだかわからなければその質量に相当するものも、弾力に相当するものもわかりようはない。従ってこれが数学的の取り扱いを許されるまでにはあまりに大きな空隙くうげきがある。
それにもかかわらず笑いの現象を生理的また心理的に考える時にこの力学の類型アナロジーが非常に力強い暗示をもって私の想像に訴えて来る。そうして生理と心理の間のかけ橋がまさにこの問題につながっていそうに思われてならない。
これを一つの working hypothesis として見た時には、そこからいろいろな蓋然的がいぜんてきな結果が演繹えんえきされる。たとえば笑いやすい人と笑いにくい人などの区別が、力学の場合の「粘性」や「摩擦」に相当する生理的因子の存在を思わせる。粘液質などという言葉が何かの啓示のように耳にひびく。あるいは笑いの断続の「週期」と体質や気質との関係を考えさせられる。またかりに「笑い」が人類に特有な現象だとすれば、他の動物では質量弾力摩擦の配合が週期運動の条件を満足させないために振動が無週期的 aperiodic になるのではないかという疑いも起こる。
子供の笑いと子供にはわからないおとなの笑いとの間には連続的な段階がある。(A)尊厳がそこなわれた時の笑い、(B)人間の弱点があばかれた時の笑いなどは必ずしもこれを悪意な Schadenfreude とばかりは言われない。ここにもある緊張のゆるみが関係してくる。
(C)望みが遂げられた時の喜びの笑い、これも無理なしにここの仮説の圏内にはいる。
少しむつかしくなるのは、(D)得意な時の自慢笑い、(E)軽侮した時の冷笑などである。しかし(D)には(A)と(C)の混合があり、(E)には(B)や(D)の錯雑がある。
(F)苦笑というのがある。これは自分を第三者として見た時の(A)と(B)とが自分を自分とした時の苦痛と混合したものででもあろうか。
こんなふうにしてもっといろいろな種類の笑いがLMN……というぐあいに導き出されそうに思われる。しかしこのような問題はもう純粋な心理の問題になって肉体との縁が遠くなる。これは自分のここに言おうとする事ではなかった。
この「仮説」はただ自分の奇妙な「笑い」に対する少年時代からの疑いを解くために考えたものである。この考えの普遍性を主張しようとしているわけでは決してない。しかしそれが少なくも多数の人に普遍なものを含んでいなければ私はやはり安心ができない。
物事を系統化する事の好きな人はその系統にはいらない事実に盲目になりがちなものである。私の現在の場合にもそんな傾向がないという事は断言できない。それでこれはまだまだ充分に考えてみなければどうなるかわからないが、しかしよく研究してみたらいくらか物になりそうな見込みはある。
読者の内にもし専門の学者があらばその人はこの私の素人しろうと考えを正してくれるかもしれない。もしまた素人で同じ経験を持っている人があらば、その人は同じ問題の追求に加勢してくれるかもしれない。このような考えから、私はこの懺悔ざんげとも論文ともつかないものを書いてしまった。この全編の内容が一般の読者の「笑い」の対象になっても、それはやむを得ないのである。
(付記) この稿をだいたい書いてしまって後に、ベルグソンの「笑い」という書物が手に入って読んでみた。なるほどおもしろい本である。この書の著者は、笑いにはすべて対象があるものと考えていて、対象のない笑いには触れていない。そしてその対象は直接間接に人間的なものと考え、顔や挙動や境遇や性格やの滑稽こっけいになるための条件公式あるいは規約のようなものをいくつも、科学的に言えばかなり大胆に持ち出してはそれを実例と対照させ説明している。それを基礎として喜劇というものが悲劇ならびに一般芸術に対してもつ特異の点を論じたり、笑いの社会道徳的意義を目的論的な立場で論じたりしている。
読んでいるうちにいろいろ有益な暗示も受けるし、著者の説に対する一二の疑いも起こった。しかしこれを読んだために私がここに書いた事の一部を取り消したり変更する必要は起こらなかった。私の問題は「対象なき笑い」から出発して、笑いの生理と心理の中間に潜むかぎを捜そうとするのであるが、ベルグソンはすっかり生理を離れて純粋な心理だけの問題を考えているのである。
ベルグソンの与えている種々な笑いの場合で私のいわゆる「仮説」とどうしても矛盾するようなものはなくて、むしろこれに都合のいい場合がかなりにあった。そしてこの書の終わりに近くなって笑いと精神的の弛緩しかんとの関係に少しばかり触れている一節があるのを見いだして多少の安心を感じる事ができた。
これらの読後の感想についてはしるしたい事がいろいろあるが、この稿とは融合しない性質のものだから、それは別の機会に譲る事にした。
(大正十一年一月、思想)