心灵的画   田山录弥

心灵的画  田山录弥

2026.8.6.

无论经历多久,走到何处,人生始终如一。有时会感到无聊,想做些令人惊讶的事来打破沉闷,但即便如此,最终人生依旧毫无改变。对于这种无聊,虽无良药可治,若非不得已,也只能选择孤独、无为、无思、无念了。

“就这样也好,就这样也好……原来以为只要这样就能解决问题,其实错了。” 

这种感觉,任何人都一定会在某个时刻有过。走到这一步,谁都会如此。但接下来会怎样呢?就这样放任下去真的可以吗?或许有些人确实能够安然接受,但肯定也有人无法就此罢休。即便到了那一步,周围依然混沌不清,无限的可能依然存在。 

因此,这才是困难之处。难以牢牢把握自己所拥有的东西。如果能不把拥有当作拥有,那自然最好;但既然已经拥有,就不可能完全不去意识到它的存在。这里便设下了一道艰难的关卡。于是,人们往往走到这一步,却因不知如何打开这道门而只好退回来。

事实与想象之间的界限,究竟何处为事实,何处为想象,这种微妙的心理状态往往难以分辨,而正是这一点构成了其艰难的关卡。任何人都可能成为“宗教中的神”,都可能成为“基督”。而这种心灵境界,正是由事实与想象之间精细交融所形成的。 

什么是事实?这个疑问总是伴随着人类走向这样的境地。

仅从表面来看,人似乎相当简单,又相当聪明。然而一旦深入内心,那里便呈现出截然不同的景象:人既不那么单纯,也不那么理智。那里既有苦涩阴暗的阴影,也有阴森丑陋的褶皱;仿佛业火在猛烈燃烧,却又似本能的洪流汹涌而至。一幅极其痛苦的地狱图景在那里展开。但人却总是竭力避免触碰它,因为一旦触及,便会意识到那里面存在着一个可怕的、恐怖的世界——这种意识是无意识中早已存在的。因此,人只能停留在表层,即便有所认知,也无能为力。唯有现实成为唯一的问题,而内心深处的事物则被彻底回避、弃置不顾。如此一来,我们根本无法真正理解何谓“人”。事实与想象之间那细微的心灵关卡,也就永远无法通过。

将光与声音的关系置于事实与想象之上加以思考,也颇为有趣。无论如何,比起表面呈现出来的事实之音,想象的光芒更能迅速向人类暗示那最深处的不可思议。那里必定蕴含着某种暗示,有光存在。而事实的声音,则从其后方迟缓地追来。

然而,若过于深入触及人类内心深处的“图景”,也绝非毫无危险。内心的“图景”总是将人带入无中生有的境地,带入有中归无的境地,带入自我膨胀、不自然的心灵之中,甚至引向每个人内心都潜藏着的“基督”浮现而出的地方。有时,它便如同霍普特曼笔下的《伊曼纽尔·奎因特》一般。但有趣的是,托尔斯泰却始终将自己内心的景象彻底粉碎为尘埃,又不断朝着那内部的图景前行。他一次次摧毁自己的内心,又一次次从头开始重新构建。如此反复以内心为问题,却又最终未被内心所束缚,这实在是一种罕见的特质。

当我看到睿山宝库中的《十界图》时,从未有过像此刻这般,仿佛被直接逼视着内心图画的感觉。通常人们或许只会感到人的可怜、悲伤或罪恶,而我却感到了恐惧——一种深沉、如战栗般的恐惧。无论如何,我都无法将其视为单纯的比喻。我认定那是存在于每个人内心深处的可怕“心之图景”,同时,我也认为那是这幅心之图景所应得的自然报偿,抑或惩罚。

一切外在的表象,皆源于此类内心。皆源自这可怕的“心之图景”。无论是战壕中腐烂的尸体,还是尼港事件那样的惨烈屠杀,无论何事……。

所谓退转,就是回归外在的现实。然而,退转对人而言是必不可少的。如果偶尔不回到外在现实中,就会被内心所困,变得一事无成……。

一旦成为神,一切便已终结。因此,内心的精神景象,始终不可忘记会使人陷入深深的陷阱之中。

一切事物都存在于内心之中。即使现实消逝,留在心中的印象却会永远、永远地留存下来。即便你以为它已经消失,也绝不会真正消失,总有一天会再次浮现出来。直到现在,我才终于清晰地在心中重现了已故母亲和已故祖父的心境,仿佛第一次真正理解了他们当年内心的痛苦。(若非到了那一刻,是无法明白的……)。四十岁的人,不到了四十岁是无法理解的。我曾经说过这句话,现在也依然无需收回。事实的确如此。无论是走在前面的人,还是后来追随的人,都是这样。

过去年轻时,看到年长者的行为,总说“我绝不会做出那样的事”。可如今回头来看,那些年轻时说的话,不过是年轻人一时的感受罢了,终究会发现,自己终有一天也会变成当年所鄙视的那类人。走到今天这一步,仍不禁觉得,“人生真是个陷阱”啊。

事实与想象的融合。——有与无的混合,若要具体地表达,终究会变成一种比喻,但这种比喻不应停留在表面,而必须真正从内心去体感,作为真实的心境和真实的显现来体验。唯有如此,才能真正进入那深奥难解的不二法门。

无论抽烟也好,喝酒也罢,无论饮或不饮都一样的心境——带着这样的心境前行,实非易事。即便明白其中道理,要真正伴随这种心境而行,依然困难。然而,这却是必须尝试的事。而实现这一点,有两种途径:一是从一开始就研究“无”,二是将“有”推至极致,从而抵达“无”。前者最为直接且真实,但人往往难以做到,即使理解了道理,也无法付诸实践;后者虽带有方便法门的形式,却如同刻意针对弱点进行攻击一般,具有类似抵抗疗法的特点,能够微妙而有效地引导我们到达那种境界。

我在某天的日记中写道:“我长久以来一直为想象与事实之间的矛盾所困扰。这两者本应完全吻合,却总是无法顺利融合,常常彼此分离、互不相容。渐渐地,我把它们挤压在一起,不断深入探究,最终从现实中获得想象,又从想象中寻得现实。”

在我的所写之物中,我总是努力去寻找作者的身影。作者究竟在何处?他以怎样的姿态、何种方式存在着——这对我来说才是最重要的。我在其中发现了形形色色的东西:有的作者在微笑,有的在愤怒地激烈挣扎,还有的仿佛正毫无顾忌地扑过来。而忽然间,某个作者又好像故意似的,把自身所拥有的东西尽情展示出来。然而他并不知道,自己所持之物不过是些玩具般的存在,转眼便会破碎。还有些人则狂喜若狂,喧闹不止。

在评论托尔斯泰的文字中,我也从未忽略过,那些评论者自身的痛苦与孤寂,往往比托尔斯泰本人的苦痛与寂寞更加鲜明突出。作者常常比他所选择的主人公更急于向他人展现自我。当然,这种表现或许是无意识的。

“啊,还是自己啊,说的不就是自己嘛……所以,就算有人喜欢读我的小说,那也多半是因为他们的心被小说中的内容触动并产生了共鸣,而不是真正意义上的阅读。但这种情况,实在无可奈何。”

我曾对一位朋友说过这样的话。

要使自己的内心完全独立于一切事物,不被社会、家庭、男女关系、金钱、名誉乃至任何其他东西所束缚,这实在是一件非常困难的事。这就像不断飘来的尘埃,无论怎么拂去也扫不尽,始终在不断地侵蚀着内心的明镜;只要稍一松懈,便会立刻被沾染并牢牢抓住。其中尤以家庭和男女问题最为可怕。至于社会、名誉之类,若想远离,尚且勉强可以做到;但一旦陷入家庭与男女关系的纠葛之中,便很难轻易抽身。而越是被束缚,心灵的镜子也就越加蒙上灰尘,变得昏暗不清。

无论走到哪里,都会令人恐惧的“心灵之画”悄然浮现。

心の絵

田山録弥

 いつまで経つても、また何処まで行つても同じであるこの長い人生、時には退屈して何か人を驚かすやうなことをして見たいと思ふことはあつても、さて、さうしてやつて見たところで、矢張同じやうに何うにもならない人生――。この退屈さの対症療法としては、何も好い薬はないけれど、止むなくばそれ、孤独、無為、無想、無念か。

『あるがまゝで好い、あるがまゝで好い……。それを何うにかしやうと思つたことが間違つてゐた』

 かういふ風に、誰でも一度は感ずるに相違ない。そこまでは誰でも行く。しかしそれから先何うなるか。あるがまゝで好い……それですましてゐられるか。すましてゐられる人もあるかも知れないが、すましてゐられない人もあるに相違ない。矢張、其処に行つても、あたりは混沌としてゐるに相違ない。無限の度数があるに相違ない。

 従つてそこが難かしい。持つたものをしつかり攫つかむことが難かしい。持つたものを持つたと思はないやうになれば好いのであるけれども、苟くも持つてゐる以上、それを持つことを意識しないわけには行かない。そこに難かしい関門がある。従つて、人はその関門まで行つて、それを開ける方法を知らないでよく引返して来る。

 事実と想像との区別、何れまでが事実で、何れまでが想像だかわからないやうな微妙の心のあらはれ、さういふところがそのむづかしい関門のあるところである。人は誰でも『宗教的神』になることが出来る。『基督』になることが出来る。そして、その心の境は、事実と想像の細かい融合から出来上つて来る。

 何が事実? この疑問はいつも人間をさうした境に伴れて行く。

 表面にあらはれただけでは、人間はかなりに単純である。またかなりに知的である。しかし、一度てんでに内部に入つて行くと、そこには丸で異つた光景がある。そこでは人間はさう単純なものではない、またさう知的なものでもない。苦渋な暗い影もあれば、陰惨な醜い皺もある。業火が凄じく燃えてゐるかと思ふと、本能の洪水が漲るやうに押寄せて来てゐる。かなりに辛い地獄の『絵』がそこに展ひろげられてある。しかし、人間は成るたけそれに触れないやうに、やうにと心がけてゐる。何故なら、一度それに触れゝば、恐ろしい世界がそこにあることを知つてゐるからである。無意識的に知つてゐるからである。従つて、人間は表面しか知らずにゐるやうになる。知つてゐても何うにもならないやうになる。唯現実だけが問題になつて、内部のことは、全く触れずに打棄うつちやり放しにされてゐる。これでは、本当の人間といふことはわかる筈はない。事実と想像の触れ合つた細かい心の関門が通過されるわけはない。

 光と音響との関係を、事実と想像との上に持つて来て考へて見るのも面白い。何うしても表面にあらはれて来る事実の音響よりも、想像の光りの方が、底の底の不可思議をいち早く人間に暗示するものである。屹度、其処には何等かの暗示がある。光がある。そして、事実の音響は、その後から凄じくやつて来る。

 しかし、余りに深く人間の内部の『絵』に触れるといふことも、決して危険でないことはない。内部の『絵』は兎角人間を無の有の中に伴れて行く。有の無の中に伴れて行く。自己誇大の不自然な心の中へ伴れて行く。誰れでも持つてゐる『基督』が浮び出して来るやうなところへと伴れて行く。何うかすると、ハウプトマンの『エマヌエル・クウイント』になる。それにしても、面白いのは、トルストイがその内部の光景をいつも粉微塵こなみじんに粉韲ふんさいしながら、常にその内部の光景に向つて進んで行つた形である。かれは何遍となくその内部を破壊した。そしてまた最初から新規蒔直しをやつた。あの位、内部を問題にしながら、しかも遂に内部に捉らへられなかつたことは、特異としなければならない。

 叡山の宝物の中の『十界図』を見た時ほど、さうした内部の心の絵をそのまゝ突きつけられたやうな気がしたことはなかつた。普通ならば、人間のあはれさとか、悲しさとか、罪深さとを感ずる程度にとゞまつたであらうが、そこでは私は恐怖を感じた。深い、戦くやうな恐怖を感じた。単なる譬喩とは何うしても思はれなかつた。皆な誰でもの内部にある恐ろしい『心の絵』だと思つた。また、その心の絵の自然の報酬乃至罰だと思つた。

 あらゆる外部のあらはれは、皆なさうした心から来る。恐ろしい『心の絵』から来る。塹濠の中の凄じい死屍も、尼港事件のやうな凄じい虐殺も、何も彼も……。

 退転するといふことは、外面的現実にかへることである。しかし、退転といふことは、人間にはなくてはならないことである。時々は外面的現実に戻つて来ないと、内部に捉らえられて何うにもかうにもならなくなつて了ふ……。

 神になつて了つては、もう凡ておしまひである。従つて、内部の心の光景は、常に、人を深い陥穽かんせいの中に陥れて了ふことを忘れてはならない。

 あらゆることが心の中にある。現実は滅びても心の中に印象されたものはいつまでもいつまでも残つてゐる。消えたと思つても、決して消えない。いつかしら再び浮き出して来る。私は今になつて、亡母や亡祖父の心をはつきりと自分の心に蘇らせて来る。そして初めて亡母や亡祖父のその時分の心の苦しみを知ることが出来たやうな気がした。(その時になつて見なければわからない……。四十なら、四十になつて見なければわからない)かう私は曾て言つたが、今でもそれを取消す必要はない。矢張その通りだ。前に行つたものも、後からついて来るものも皆さうだ。

 昔、若い時に年を取つた人の行為を見て、『自分は決してあんなことをやらない』などと言つたものだが、今になつて見ると、矢張、さう言つた昔の言葉は、若い者の単なる感想で、いつか自分も、さうした年を取つたものゝ心持になつてゐることを発見せずにはゐられないのである。此処までやつて来ても矢張『人生は罠だ』といふ気がせずにはゐられない。

 事実と想像の融合。――有と無との混和、これを具象的に言はうとすると、何うしても譬喩になつて了ふけれども、しかし譬喩にならずに、本当の心持として、また本当のあらはれとして、心から体感することが出来なければならない筈である。それが出来て、始めて難かしい不二の法門に入つて行くことが出来るのである。

 煙草なり、酒なりを、飲んでも、飲まなくつても同じだといふ心持――この心持に自己を伴れて行くといふことは、中々容易なことではない。さういふことはわかつても、さうした心持に伴れて行くことは難かしい。しかし、これは是非やつて見なければならないことである。そしてこれをやるについて、二つの方面がある。始めから無を研究するのと、有を押しつめて無に至るのと、この二つである。第一は一番手近で、且つ本当だけれど、何うも、人間には容易にこれが出来ない。理屈はわかつてゐても出来ない。第二は、方便的の手法と言つたやうな形があるけれども、しかし、それは、わざとその弱点を攻めるやうな――抵抗療法的なところがあつて、微妙に、且つ有効にその境に至ることが出来るものである。

 私はある日の日記の中に書いた。『私は想像と事実の問題について長い間苦しんだ。この二つの答は、ぴつたり合はなければならないのだが、何うもそれが旨く行かない。いつも、離れ/\になり勝ちであつた。次第に、私はそれを押し詰めた。突き詰めた。そして事実から想像を得て来た。想像から事実を得て来た』

 私は書いたものゝ中に、いつもその作者を見出すことをつとめた。何処に作者がゐるか。何処に何ういふ恰好をして、何といふ風にしてゐるか、それが私には一番大切なことであつた。いろ/\のものを私は其処に発見した。作者が笑つてゐるものもあれば怒つて激してゐるものもあつた。無闇に突かゝつて来やうとしてゐるやうなものもあつた。かと思ふとある作者はこれ見よがしに、自分の持つてゐるものを見せびらかすやうにした。しかも、その持つてゐるものは、玩具見たいなもので、すぐ壊れて了ふものであるのを知らなかつた。あるものは、有頂天になつて騒ぎ廻つてゐた。

 トルストイを評したものゝ中にも、その評者の苦しみやさびしみの方がトルストイの苦しみやさびしみ以上に余計にはつきりと出てゐるのを私は見落さなかつた。作者はその選んだ主人公よりも、却つて余計に自分を人に示すことをつとめるものであつた。無論、それは無意識ではあらうけれど――。

『矢張、自分だね。自分のことを言つてゐるんだね……。だから、私なら、私の小説を愛読して呉れる人があるにしても、それは、その私の小説の中に、その者の心をくつつけて、そして共鳴してゐるのであつて、本当に読んでゐて呉れるのではないやうな場合がよくあるよ。しかし、これは何うも為方がない』

 こんなことを私はある友達に言つた。

 自分の心一つを、あらゆるものから独立させて、社会にも、家庭にも、男女の問題にも、金にも、名誉にも、何にも彼にも捉えられないやうにしておくといふことは中々容易なことではない。それは丁度払つても払つても尽きずにやつて来る塵が、絶えず心の玉を※(「王+占」、第4水準2-80-66)けがさう※(「王+占」、第4水準2-80-66)さうとしてゐるやうなものであつて、少し油断をしてゐると、すぐ※(「王+占」、第4水準2-80-66)されて捉えられて行つて了ふ。中でも、家庭と、男女問題とが最も恐ろしい。社会とか、名誉とかいふことは、遠く離して置かうと思へば、置けないこともないやうなものだが、前の二者に至つては、一度即けば、容易に離れて来ることは出来ない。そして捉えられれば捉えられるほど、心の鏡は曇つて行つて了ふのである。

 何処まで行つても、くつついて来るのは、恐ろしい『心の絵』だ。



©著作权归作者所有,转载或内容合作请联系作者
【社区内容提示】社区部分内容疑似由AI辅助生成,浏览时请结合常识与多方信息审慎甄别。
平台声明:文章内容(如有图片或视频亦包括在内)由作者上传并发布,文章内容仅代表作者本人观点,简书系信息发布平台,仅提供信息存储服务。

友情链接更多精彩内容