視界に落ちかかる夕陽。その残光を浴びて、白い頬が紅色に染まっていた。
遠くに向けられた眼差しに覇気は宿っておらず、静かに佇んでいる背中は頼りなく見える。これが、何千万という将兵を畏怖と敬愛に震わせ、銀河を統べる皇帝なのかと思われた。
王冠を載せていなくても輝くように眩い金糸に、最後の光が弾かれて、それから徐々に消えていく。代わりに灯された照明に、ようやく此方の存在に気付いたようであった。薄い蒼の、氷のように冷たい視線が、向けられる。
俄に、彼を包む空気が変化した。果敢なく散りそうな、数秒前の彼ではない。“ラインハルト・フォン・ローエングラム”として堂々たる、獅子のような姿に軽く唇を吊り上げた。
「何を見ておいでだったのです?」
そう尋ねるが、返答は無い。そんなもの、必要が無いとでも言いたげに目が細まり、カーテンが閉められた。
***
優しさなど要らない。暴力的なまでの激しさと熱とで、翻弄させてくれるのであれば、それだけでいい。金銀妖瞳の男は、その要求に応じた。荒々しい情交を終えて、息が整えば身を清めて立ち去る。言葉も睦言も無い。
静かに閉められた扉。完全に暗闇で満たされた部屋で、上体を起こした。
かけられたシーツを落として、シャワールームに向かう。
水滴で洗い清めても、全てを洗い流せるわけではない。まだ皮膚に色濃く残る鬱血や、指の感触を振り払うかのように布で拭って、寝間着を身に付けた。
人に縋れるほどに矜持は低く無く、孤独でいられるほど強く無かった。覚えた誰かのぬくもりを、他の者で埋める。その行為を、恐らくあいつは悲しむだろう。代償ですら無い。こうして、何度交わりを経ても、渇きは癒せず飢えたままだ。
お前が居た頃とは違う。そう知っているのに、まだ探している。その姿を。声を。ぬくもりを。
***
苛立たしげに親指の爪を噛む。綺麗に整えられていた薄紅色の其れは、無残な姿になっていた。不揃いな其れを、手を取り、鑢をかける。
「傷が付きます。」
それくらいが何だ、と睨む。彼にしてみれば、如何ということも無いのだ。その象牙細工のような肌に傷がつこうが、一向に構いないのだろうが、此方はそうではない。
整え終えた爪の先端が、軽く頬の皮膚に食い込む。傷がつかぬ程度の、痛みを覚えぬ程度の力を篭めて。見据える蒼氷色の双眸が、己を映す。劔のような光を宿す、唯一無二と仰ぐ覇者。
躰の奥底にある心が揺さぶられる。他には決して動かない、石のような其れが斯もこの御人には揺るぎ震え、目を逸らせず指の一本も動かない。
「何も爪を研ぐだけに部屋に来たのではあるまい。何を言いに来た?」
「・・・あまり、ロイエンタール元帥を傍に居させぬほうが宜しいかと存知ます。」
「例のナンバーツーは不要だという論理か。生憎、あれを傍に置いているのはそういう目的ではない。」
口端を皮肉らしく吊り上げて、彼は嗤った。
「互いの利害が一致しただけだ。肉欲を解消しているだけに過ぎぬ。ミッターマイヤーは妻がいるし、他の提督・・・・ミュラーなどは向かぬだろう。」
「彼は危険な男です、陛下。大人しく鎖で繋がれることを良しとするだけで、果たしていられますかな。」
「卿はそう言うが、キルヒアイスも卿を危険だと言っていたのだぞオーベルシュタイン。」
それとも、と目が細められる。
「卿が代わりをするか?」
黙っていると手が離されて、退出を命じられた。薄く笑みを浮かべたまま、彼は冗談だと言う。冗談にしては、随分と性質の悪い。
出ていく間際、声をかけられて足を止めて振り返る。椅子から立ち上がり、歩み寄る彼を黙って見つめた。
一歩手前で立ち止まり、襟元を掴まれる。軽く引き寄せられ、触れるだけの口付けをされた。
舌先が唇をなぞり、離れる。つまらなそうに鼻を鳴らして、不機嫌だと眉が寄った。恐らく、仰天する様を見たかったのだろうが、子供のような悪戯には失笑するしかない。己が応えたところで、満足する貴方ではあるまいに。
「失礼致します。」
常と変わらぬ声を装い言えば、軽く頷き彼は背を向けた。扉を閉めて、息を吐く。
きっと彼は何も知ることはない。己の感情を乱していることなど。
知らなくてよい。舞台の上で演じるような役割を有していない影は、寄り添い従えばよいのだ。
***
あの鉄面皮に、何か変化でも起こらぬものかと期待したが、変化など漣程度にも見えなかった。見下ろす義眼は無機質に光り、頬の筋肉すら動かない。失望し、自分は彼に何を求めているのかと自嘲した。
自分が求めるものなど、もう永遠に手に入ることは無いのだ。決して。
軍務尚書が部屋を出ていってから、足音が消えるまで椅子にもたれ掛かり、完全に聞こえなくなってから息を吐き出す。
切りそろえられ、鑢で丁寧に磨かれた爪。まるで、己にそうあれとでも言いたげな。否、そう言っているのだろう。銀河の覇者に相応しくあれと。そうでなくなれば、その時あの男は自分
を見捨てるだろうか。
「・・・そうだとして、今更別の神輿を担げまい。」
独り薄く笑いながら、誰にも埋めることのできない隙間の寒さに身震いし、マントの留め金を外した。
***
呼びつけられ、杯を交わしたあとに普段と同じような流れで抱き合う。熱い呼気。しろい肌はしっとりと水気を帯びて、四肢が絡みつく。
飲み込ませた己の分身で掻き回して突き上げれば、引き結ばれた薄紅の口唇が僅かに開きこぼれ落ちる嬌声。ぞっとする甘さを含み、尚も耐えようとする羞恥混じりの其れは、己を煽る材料だった。
蒼氷色の瞳は宙空へ向けられ、その実、己など映していない。潤み、ほたほたと眦を濡らす雫を舌先で掬い取り、耳元で囁いた。我が皇帝よ、と。肩が小さく跳ねて、視線がようやく此方を向く。焦点が定まり、名を呼び返された。些細な執着。何度繰り返しても、また同じようにする。呆れ果てるほど、矮小な自分の度量は、
されどもう仕方がないと諦めるより他はない。
貴方を、冥界の住人に引き渡したくないのだ。
この一時だけでもいい。
その間だけ、己の腕の中に収まってくれと願う。
何か吐き出す言葉を躊躇ったのか、口が開閉し、きゅ、と引き結ばれた。瞼は下ろされ、魅了して止まぬ眼は見えなくなる。
何も聞かない。貴方が言いたくないのであれば、尋ねることはない。だが、貴方がそのなにごとかを己に言ってくれたのであれば。
例えば、――――愛のことばを。
そうであれば、何もかもを擲ち、捧げて、他には何も要らぬとそう思えるのに。
それが有り得ぬと、最早既に知り尽くしているから、嘆息するしかないのだ。
強くつよく身を掻き抱き、組み敷いた花を暴く。露の滴る身が、乱れるさまを網膜に焼き付けて残す為に。
***
虚脱して椅子に座り込む背を見下ろす。
敵も味方も、自分を置いていくのだと怒り嘆き、手で顔を覆った。しかし肩は震えず、涙の一滴も流れてはおらぬ。
手をどけて、泣くことを忘れたかのように胡乱げな視線だけを壁に向けていた。
危険だと、常常進言していた男の謀反。そして死亡の知らせに、彼は何を考えているのか。
キルヒアイス提督の時は、現実を否定し、慟哭していた。今回は静かなものだが、抱えている哀しみや絶望や後悔は如何程だろう。
愛していたのか等という事は訊くべきではない。聞くにも及ばぬ。言葉で如何様にも語れることだ。本心を偽る術を、この方は既に身に付けている。あの日、片翼を喪ってから。
「オーベルシュタイン。」
「は。」
短く応える。この戦いでの損失や、そのための代償。人事の変更に、費用のこと。やるべきことは多々あった。それを、皇帝は知っている。
だから次いで出てきた言葉は全てそれらのことだった。最後の一つだけを除いて。
「式典は、叛逆者には出来ぬな。だが元帥号まで剥奪はせぬ。あれは、あの男が自らの手で掴み取った武勲だ。奪うことは出来ぬ。」
「反逆者でも、ですか。」
「そうだ。」
頷き、独語のように小さな声ではあったが、彼は呟く。
「おれは多くをロイエンタールから奪った。これ以上、奪うことは出来ない。」
拾い上げた己の聴覚。詮索は避け、礼をしてから部屋を出て、実行すべき事柄をするために部下を呼んだ。
***
墓前に刻まれるべき栄光は其処に無く、供えられる花束も無い。人影すら無い、物寂しい場所に建てられた墓石。冷たい其れに手を置いて、
持参した小さな花束を添えた。
豪華なものなど好きでは無かろう。
何が好きか、知りもしない。
語るべきことは多くあっただろうに、それをしなかった。そうしてしまえば、思い出が色褪せて故人より現在へと移ってしまいそうで、怖かった。ああ、そうだ。おれはお前が恐ろしかったのだ。不器用なほどに情熱的で優しいその愛を受け止めるのが、怖かったのだ!
そんな風に言っていれば、きっと冷笑しただろう。何を言っておいでですかと。御冗談を、と。嘘などついても、見抜く癖に。
「・・・・お前はおれを愛すべきではなかった。抱くべきではなかったのだ。他に、そうする相手など両手の指の数以上にいたに違いない。それらを捨てて、自分にだけ注いだ愛情を、返すことは無いと知っていたというのに、愚かにも己に全てを捧げた。叛逆?そうではない。あれは血に飢えたおれへの、最期の贈物だ。そうだろう、ロイエンタール?」
死者は何も答えることはしない。
二度、そう教えられた。一体、何度おれはそう教われば、繰り返さずに済むのだろう。
別れの言葉は言わない。どうせ、そう遠くなく会えるだろうから。天上の世界とやらに、行ければの話である。
手を石から離し、親衛隊が待つ地上車に乗り込み、侘しい墓を離れた。
後宮に戻り、頭を垂れる忠臣に目を向ける。
己の影。何処までも付き従うであろう、万年氷の彫像のごとき男。
「――――卿は、」
ぽつ、と思った言葉を吐き出した。
「卿は、予より先には死なぬであろうな。予を、愛してなどいないから。」
反応を見ることもせず、背を向けた。何も反応などしないのに、見る必要も無い。
静かに無言で佇み、暫く彼が動かなかったことも知らず、部屋へ引き返す。
だから、そのあとで何と言ったのか、知りもしなかった。
「・・・貴方が死ぬ時は、影もまた消える。私の貴方への忠誠と愛とは、そういうものです、陛下。」
誰もいない廊下で、その声は反響さえせず聞き取るものもなく、消えた。
Ende.