音楽を目で見ているかのようだ。小さな水たまり、おたまじゃくしが元気よく泳いでいる。魚とは違った、無邪気な泳ぎを見せてくれる。音符が泳いでいるなんて、ちょっと洒落た表現だろうか。
ある日、大雨が降った。坂の途中にあるその水たまりに、洪水が襲い掛かった。音符の群れは力を失い、すべての動きは意志によるものではなく、本能によるものへと変わった。境界線はどこにあるのだろう。流されてしまったもの、助かったが傷を負ったもの。おそらく運でしかないのだろう。予期せぬ出来事に音楽は旋律を失った。
指揮者は指揮を大きく振り誤ったようだが、照明係は予定通りの仕事をした。暗闇が来た後は、必ず光がのぼった。必ず。
その後、予定通りの演奏を見せてくれることはなくなった。ほとんど―残ったものの中でのほとんどという意味―は、泳ぐことをやめて、水底でじっとして動かないようになってしまった。以前とは変わり、澄んでいた水は濁って、先が見通せる状態ではなくなってしまった。しかし、音符たちは水の中で、音を奏でることをやめてしまったのではない、今はまだ音を奏でられる状態でないだけなのだ。
あまいにおいがする。きのうは、湿った土のにおいがした。雨の日はつめたいにおいがした。風は、巡回しているわけではない。毎日、あたらしい風が吹き、あたらしいにおいを運んでくれる。同じ風が吹くことは決してない。明日は、あさっては、どんなにおいがするのだろう。どんな音が聴こえるのだろう。
坂の途中にあるその水たまり沿いにあった大きな木はさらに大きな樹になった。流されたものたちは、樹へと生まれ変わったのだろう。それは、見上げると、天まで伸びているようであり、天までととどけと願いたくもなる。しかし、一直線に伸びているわけではなく、枝をめいっぱい広げて、さらに大きな葉を淡い緑色に輝かせている。両手を広げて天を仰いでいるようだ。なぜか微笑んでいるようにもみえる。
濁りの中、じっと耐えていた音符たち。水は、以前の澄み切った状態に戻った。しかし、泳ぐと、また濁りだしてしまう。今はまだ、アンダンテ、歩くような速さで。
刻むメロディーもあたらしいものになった。変わるものもあれば、変わらないものもある。約束された時がきたようだ。長かったが、今、音符たちに足が生えてきたのだ。
水たまりには何もいなくなった。坂の下に残ったのは僕だったようだ。こころに空白を感じつつ、床に就く。風は今日もあたらしい。それに乗って大きな合唱が始まった。試練に耐えた音符は、ついに音楽になって帰ってきた。演奏者の力強い歌声に涙した。翌年、水たまりには、あたらしい譜面が完成していた。