いわゆる、訓み下しです。日本語流の読み方です。「者」が「~ならば」の意味で使われていることを解読して「者」と読んだ。こうした下地があればこそ、万葉集の見者、古思者、人在者、待問者、余越去者などの表記が生まれたわけです。
門外漢なりに、無文字言語だった日本語が文字言語を手に入れていくほんのひとこまを、というより断片の断片の、そのまたかけらのようなことを思い描いてみました。
新潮現代国語辞典などの編纂でしられる山田俊雄先生は次のように書いておられます。
漢字は、日本語にとって上代に保有することとなった初めての、組織的な、社会的な文字であった。文字というべきものを方法として持たなかった日本語にとって、漢字とのめぐりあいは運命的な事件であたといえよう。(角川大字源)
这里有一个约定俗成的日式读法。“者”这个字,用在这里其实是作“如果”的意思。所以万叶集的见者、古思者、人在者、待问者、余越者,都是这个意思。
如果是一个什么都不懂的门外汉,猛的拿到一些只有假名的日语,而且都是非常零散的,几个假名几个假名在一起的片段,可能根本就无法拼凑出一个完整的句子。
参与过新潮现代国语辞典编纂的山田俊雄帮我写了如下的一段话:
汉字,是日本从上一代就使用,有组织、社会性的问字。如果没有掌握汉字的意思和方法,拿到日语文章的人,也只能看懂一堆假名围绕了一堆汉字的故事罢了。