日本便当很精致,不仅仅是食物文化,更是社会价值的体现。
先日のゲリー先生の日本語学のゼミで、日本の子供の弁当を題材に日本文化を論じてた論文を取り上げました。日本の子供が学校や幼稚園に持っていくお弁当のことです。まず、子供の学校の昼食の取り方というのが、アメリカと日本とでは非常に違うので、給食がないところでは、みんなが一斉にお弁当を持っていくというのが、アメリカ人には少し驚きのようです。アメリカでは、お弁当をもっていってもよいし、学校の売店で買ってもよいし、お弁当を持って行った上でなにか買っても構いません。
そして、何よりもアメリカ人にとって驚きであり、この論文の主題となっていることは、日本のこどものお弁当が芝らしく手の込んだ芸術品の様相を呈しており。それが母親の腕の見せどころだ、という事実なのです。アメリカの子供のお弁当といえば、ポテトチップの袋が一つ、チョコパーが一本、サンドイッチが一つにリンゴぐらいなもので、母親がことさらに手をかけることがまずありません。私がよくお世話になる先生のお宅などでは、両親ともに大学教授で忙しいこともあり、朝は子供が自分で冷蔵庫から適当に食べ物をかき集めて持っていきます。
こういう伝統からすると、黄色い卵に緑のほうれん草、赤いさくらんぼなどで見た目で美しく飾り、おまけにリンゴでウサギを作るなどということはおもいも及びません。そこからこの著者は、日本社会における「母親」という役割の重要性、お弁当優秀さで母親の優秀さが計られること、母子の緊密な関係、そして、誰も同じように素晴らしいお弁当を持たねばならないという集団主義、また、日本文化における女のあり方などについて議論を広げていきます。
お弁当というものを、そういうふうには考えたことがなかったので、大変重しく感じました。しかし、本当にこれは母親や女に関する日米の文化的差異から来るのでしょうか?私は、まず根本は食文化の違いだ思います。日本には、子供のお弁当に限らず、各種駅弁から始まって、高級料亭のお弁当まで、「お弁当」という芸術的食物を作る文化があるでしょう。アメリカにはそもそもそれが存在しないので、美しい子供のお弁当が生まれる余地がないのです。
そうだとすると、母親や女について考える前に、まず、なぜ日本にはこんな美しい「お弁当文化」があるのか、ということを問題にせねばならないようですね。