盛夏的日本海
中谷宇吉郎
2026.9.3.
这十多年来,说起海,我只见过太平洋沿岸的海。但偶尔回想起小时候每年亲近的日本海夏日之海,那份异常美丽的记忆便会浮现出来。
日本海沿岸一般发育着良好的沙丘。从浪花拍岸处开始,洁白的沙子绵延数町,堆成微微隆起的小丘,翻过丘顶便是松林,这是常见的景致。而穿过松林之后,才头一回看见渔村。这是因为冬天日本海一旦风浪大作,浪头会涌上绵延数町的沙丘,在海边近处安家根本无从谈起。
沿着海岸走去,这样的洁白沙丘延续一段之后,往往会遇上一座小小的岬角。那岬角多半由软质岩石构成,经年累月被冬日狂浪冲刷侵蚀根基,已成险峻的断崖。在这样的岬角每隔半里左右便突出一处的地方,其间便形成小小的海湾,洁白的沙滩弯弓般环抱着一湾静谧蔚蓝的夏日之海——这般光景常常映入眼帘。岬角尽头几乎总有一棵盆景般虬枝伸展的孤松挺立,身后便是绵延不绝的墨色松林。
中学时代每逢暑假,我常和几位朋友在靠近这样海湾的渔村租一间房,在日本海边度过整个夏天。不像如今的学生被入学考试追着跑、忧心忡忡,那时我们每天吃完早饭,便立刻带上鱼叉和潜水镜奔向大海。穿过松林,洁白的沙滩在清晨强烈的阳光下耀眼得令人目眩,而沙滩那边,大海真真切切地闪烁着深邃的碧蓝色。盛夏日本海清晨的那种色彩,是我此后再也没有见过的。那是一种如同将油画颜料中的群青原封不动、浓烈有力地涂抹上去一般的浓郁色泽。若论色彩之浓,在印度洋航行期间倒也见过相当浓烈的海色,然而盛夏日本海隔着洁白沙丘远远望见的那份印象,却是印度洋不曾留下的。
不过到了午后,这颜色便全然褪去了。如今想来,支配那夏日日本海清晨色彩的最重要因素,恐怕是太阳的位置。当然,决定海水颜色的因素有很多,往往受海水中所含微细悬浮物的支配。但在风平浪静的清晨、海水尚且比较澄澈之时,恰好背对太阳眺望大海——这些条件叠加在一起,才使得清晨日本海的颜色愈发鲜明。
从借住的渔家走出约三町,便有一座小岬角。那一带全是岩石海岸,岬角尖端不远处有一座小小的岩岛。岛的周围就是我们的渔场,主要收获是章鱼、的鲉和蝾螺。尽管渔家的孩子们每天成群结队地追逐捕捉,鱼儿们似乎也中意这片地方,猎物始终不见减少。学校里或许讲过海水浴的卫生注意事项,但我们早忘得一干二净,常常从早到晚泡在水里。我们这些城里来的孩子,过一个星期便完全适应了大海,半天都泡在水中忘我地追逐章鱼和鲉鱼。
那一带从浪花拍岸处到离岸约一町的范围内,是一片平坦的岩礁,水深大约两寻到三寻。有些地方还浅得可以站住脚。岩石的质地我已记不清了,但把脸埋入水中、身子懒洋洋地浮在海面上往下看时,岩礁泛着紫中带淡黄的光泽,处处是不知名目的各色海藻轻柔地摇曳。从上面看去,岩石表面布满海绵般的孔洞。先做两三次深呼吸,最后一次将气息缓缓呼出约八成,然后猛地扎入水中。下沉约一寻,海水骤然冰冷地包裹住身体,令人有些发毛,但仍硬着头皮继续下潜。到达海底后,用左手按住岩石上的抓手,将身体放平。起初身体总是往上浮,颇为吃力,但习惯之后,全身便能相当轻松地紧贴在海底了。保持这个姿势,用左手依次抓住岩角,在岩礁上匍匐前行,逐个窥探那些小洞穴。右手当然握着鱼叉,而且是按渔夫教的方法,握在靠近金属叉头的位置。
潜到海底一看,景色又全然不同了。岩石的颜色变成了绿中带土黄,海藻呈淡褐色。也许是因为海面细小的波浪折射了强烈的夏日阳光,一道道明亮的金色光纹在摇曳的海藻上平滑地游移。往洞穴里看去,常常能见到一两只海胆露出绀紫色的身影,偶尔还有蝾螺与之同住。在那一带海域,蝾螺似乎总是和海胆栖息在一起,这究竟是巧合还是有什么习性上的原因,我一直想问问学生物的老师,结果到现在也没问。
窥探了两三个洞,气息渐渐憋不住了,便用脚蹬岩石浮上去。有时不知怎地恍惚着往上浮,明明不过两寻的深度,却觉得浮出海面花了漫长得多的时间。泛着青色的乳白水面就在头顶上方,憋得难受时,恍惚间觉得那水面仿佛在自己头顶旋转。这种时候若是慌张地手脚乱扑腾反而更慢,倒不如静静地让身体保持垂直,便"噗"的一声,脑袋轻而易举地穿出水面——这个道理,不久也就领悟了。
在逐个窥探洞穴的过程中,常常会遇到鲉鱼。在略显昏暗的洞穴深处,看到那个大脑袋和朝前突起的两只圆鼓鼓的大眼睛,不由得一阵紧张。运气好、气息尚充裕时,在这股紧张劲头的一瞬间挥出鱼叉,偶尔也能得手。但碰上稍大些的鱼,为了求稳先浮上去换口气再潜下来,多半就落空了。叉鱼全凭一股真正的气合——发现目标之后,一旦想从容不迫地悄悄靠近安全距离,稍一松懈,十有八九就让它跑了。你这边还在蓄势,鱼那边也微微一动身子,摆出了伺机而动的架势。到了这一步,就远非我们的手段所能对付了。
章鱼可不容易抓到。在岛的根部被深深掏蚀的岩洞深处,似乎有大量章鱼栖息,但我们实在没有勇气钻进去。论深度,那些洞穴大多不过是进深五尺左右的简单洞窟,但往里面窥探时总觉得一片漆黑,加之水色异常浓重、澄澈如碧玉,让人担心一旦钻进去,身体就会被洞顶吸住一般。当然,这样的岩洞我们只从远处望一眼便赶紧绕开,而是半潜着水沿岛的根部绕行。这时偶尔会发现,小小的洞穴底部,海藻和章鱼的触手纠缠在一起,正随水悠悠地摆动。章鱼的颜色与岩石、海藻几乎相同,不熟悉的话很难辨认。即便是小章鱼,活着的时候力气也相当大,尤其是那许多触手缠上手臂、吸盘紧贴上来,实在令人受不了,所以看准位置便用鱼叉刺去。刺中了,章鱼会慌张地用触手缠住叉柄,这时用力拧转鱼叉,章鱼痛苦之下便会用全部触手紧紧吸住叉柄。如此一来便可轻松捕获——但事情并不总是这么顺利。中途憋不住气浮上去换气,在这当口让它跑掉的情形自然也不在少数。
我们瞄准的是章鱼、鲉鱼这类所谓的底栖鱼。但据说手艺好的人,连游在途中水层中的黑鲷幼鱼和隆头鱼之类也能叉到。黑鲷幼鱼总是成群结队。潜到海底静静待着,它们便会敏捷地从眼前一条接一条地游过。稍高一些的海藻摇曳之处似乎是它们钟爱的场所,在藻间穿梭往来,如同旋转灯笼一般不停地翩翩回旋。在这一带地方,用来做钓鱼饵料的沙蚕主要就是在岩礁地带捕获的。在靠近岸边、水深及胸的浅处,常常能看到渔夫将铁楔打入海底岩石、撬开岩石的情景。合适的岩片被撬起后,藏在岩石孔洞里的沙蚕露出头来,渔夫便赶紧潜入水中去捉。稍有迟疑,黑鲷就会抢先把沙蚕叼走,所以岩石一翻开,渔夫便立刻头朝下扎进尚未澄清的水中。铁楔敲打的声响一响起,黑鲷便纷纷聚拢来在四周守候。岩石一翻开,它们便倏地冲上前叼起沙蚕溜之大吉。渔夫恨恨地追赶,黑鲷却毫不在意。看到这番光景,倒觉得鱼和渔夫之间的关系颇为亲密。
追着鱼追着追着,渐渐游向远处,有时会来到岩礁地带的边缘附近。到了那里,岩礁呈脉络状向海中延伸,脉与脉之间形成狭窄的峡谷,深深地切入海底。谷底是沙地,骤然深达十寻左右。水色陡然变成暗绿色,那幽暗谷底平整得不可思议的沙地反而令人毛骨悚然。潜着潜着,觉得水深增加、岩石颜色变了,紧挨着旁边就是一道可怕的深渊。那青暗的谷底洁净如洗、连海藻都不生长的光景,看上去简直像是通往非生物世界的入口。潜水中猝不及防地窥见这道海底峡谷时那种神秘的恐惧感,是在别处很难体验到的。如果这时环顾四周发现一个人影都没有,那可了不得——赶紧拼命地游回岸边,即便上了岸,心脏的怦怦跳动也久久不能平息。
据说日本海的海岸在逐年下沉。以弁庆闻名的安宅关,距我们每年夏天去的地方不过数里,而传说当年关所的旧址如今已没入半里之外的海中。晴天海水澄澈时,据说能在水底看到类似鸟居形状的东西,但我从未去看过。窥探澄澈深邃的海底是一件极为可怕的事——一想到在那片湛蓝色、幽暗碧玉般的海底,若看到昭示着人类遗迹的东西会多么惊骇,便实在鼓不起勇气去看。
这样的传说似乎在日本海沿岸处处都有。此外,渔夫的渔网偶尔也会打捞出石器时代先民使用过的陶器,而且绝非个别案例。因此日本海沿岸的大部分土地在逐年沉降之说,大多数人都是相信的。这个问题从地球物理学的角度来看,尤其与日本列岛的成因以及日本的地震问题相关联,是极为重要的课题。然而真正能作为证据的资料却意外地匮乏。比方说,如果能找到某处海岸五十年前的照片,拿来和同一地点现在的照片做比较,说不定在一些地方,即便只是短短五十年间也能发现明显的证据——然而这样的实例也并不多见。
翻看着中学时代海滨生活的旧照片,沉浸在种种回忆之中。然而举着鱼叉追逐鱼儿的事,恐怕此生再也不能够了。不过那张腋下夹着鱼叉、英姿飒爽站在岩头上的照片,说不定有朝一日能为日本列岛构造的研究做出某种贡献——这样描画一个奇特的梦,倒也觉得颇有几分期待。若有一天得闲,倒想再去那片故地看看。只是渔村的面貌,恐怕早已寻不见旧日踪影了吧。
(昭和十三年五月)
真夏の日本海
中谷宇吉郎
この十年あまり、海といえば太平洋岸の海しか見ていないのであるが、時々子供の頃毎年親しんだ日本海の夏の海を思い返してみると、非常に美しかったという思い出が浮んでくる。
日本海の沿岸には一般に砂丘がよく発達している。浪打ち際から真白な砂が数丁も続いて小高い丘になり、その丘を越えたあたりから松林になっているのが普通である。そしてその松林を抜けた所に初めて漁村が見えることが多い。それというのは、冬の日本海が一つ荒れてくると、数丁も続いた砂丘の上まで浪が押し寄せてくるので、とても海辺の近くに家などを構えていることは出来ないのである。
渚に沿ってたどってみると、そのような真白な砂丘がしばらく続いてやがて小さい岬につくことが多い。その岬は大抵の場合は軟質の岩からなっていて、冬の荒浪に段々根本を洗い去られて、恐ろしい断崖になっている。そしてそういう岬が半里ごと位に突き出ている所では、その間が小さい入江になって、真白な砂浜が弓なりに静かな青い夏の海をふちどっているのにしばしば出会うのである。岬の端には大抵きまったように、盆栽風な枝振りの松が孤立して立っていて、あとは黒く続いた松林になっている。
中学の頃夏休みになると、よくこういう入江に近い漁村の一間を借りて、数人の友達と日本海の夏を送ったものである。この頃のように入学試験の準備などに追われる心配もなく、毎日のように朝飯をすますと、もう直ぐに魚刺やすと水眼鏡とを持って海へ出かけて行くことに決っていた。松林を過ぎると、真白な砂浜が朝の強い日光を受けて目ばゆいばかりに映えていて、その向うに、海が文字通りに紺碧に輝いて見えるのである。夏の日本海の朝の色位美しい海の色はその後見たことがない。油絵具のウルトラマリンを生のままで力強く塗ったような濃い色彩である。もっとも色の濃さからいえば、印度インド洋の航海の間には随分濃い海の色も見たはずであるが、真白な砂丘の向うに見える真夏の日本海の色のような印象は残っていない。
もっとも午後になると、この色はすっかりあせてしまうのであって、今から考えて見ると、どうもあの夏の日本海の朝の色を支配する一番大切な要素は、太陽の位置ではないかという気がする。もっとも海の色をきめる要素は沢山あって、海水の中に含まれている微粒の塵ようのものに支配されることが多いのであるが、朝凪のあとまだ海が比較的澄んでいる時に、丁度太陽を背にして眺められるということが、朝の日本海の色をますます鮮かにするのであろう。
間借りをしている漁師の家から三丁位行くと小さい岬がある。そのあたりは一面の岩海で、岬の突端からほんの少し離れて小さい岩の島がある。その島の周りが吾々の漁場であって、章魚たことかさごと栄螺さざえとが主な獲物であった。毎日のように漁師の子供たちが大勢で追っ馳け廻しているにもかかわらず、魚たちもそのあたりが好きと見えて、獲物はいつまでも尽きなかった。海水浴についての衛生的注意などが学校でされていたのかも知れないが、そんなことはすっかり忘れてしまって、朝から夕方晩くまで水に浸っているようなことが多かった。吾々町の子供たちも一週間もすると、もうすっかり海に馴れてしまって、半日位夢中になって章魚やかさごを追っていた。
そのあたりは浪打ち際から一丁位沖まで、平らな岩礁があって、深さは大体二尋ひろから三尋位であった。所々には背の立つような浅い所もあった。岩質は何であったか忘れてしまったが、顔を水につけながら海面にぼかりと浮いて下を覗くと、岩礁が紫がかった薄黄色に光って、所々に名も知れない雑多な藻がゆらいでいた。岩には上から見ると一面に海綿のような穴が沢山あった。二、三度大きい呼息を呼吸して、最後の息を八分位静かに呼き出したところでぐっと潜る。一尋位沈むと急に海水が冷々と身体に感ぜられるので、少し気味が悪いが思い切って潜って行く。そして底に着くと、左の手で岩の手がかりを押えて身体を水平にする。初めのうちは身体が浮いて困るのであるが、馴れてくると割合楽に全身が海の底にぴたりと着くようになる。そういう姿勢で左の手で次から次と岩角をつかみながら、岩礁の上を這って、小さい穴の一つ一つを覗いて行くのである。勿論右手には魚刺を持っているので、それも漁師に教わって金具に近い所をつかんでいるのである。
底に潜って見ると、景色がまたまるで違う。岩の色は緑がかった土黄つちぎ色に見え、海藻は薄茶色になる。そして多分海の表面の小さい波で強い夏の日光が屈折されるためだろうが、強い金色の光の縞がゆらぐ藻の上を滑かに動いている。穴を覗いて行くと、よく海胆うにが一つか二つ紺紫色の姿を見せていることがある。そして稀れには栄螺さざえが同居していることもある。あのあたりの海では大抵の場合、栄螺はきまったように海胆と一緒に棲んでいるような気がしたが、偶然なのか、あるいは何かそういう習性があるのか、いつか動物の先生にきいて見たいと思いながらそれ切りになっている。
二つ三つ穴を覗いて行くうちに息が苦しくなるので、足で岩を蹴るようにして浮き上ってくる。何かの調子でぼんやり浮いてくると、わずか二尋位の所でも、海面まで出るのにひどく長い時間がかかるような気がすることがあった。青みがかった牛乳色の水面が上の方にあって、息が苦しくなってくると、何だかその水面が自分の頭の上で渦を巻いてるような形に見えた。そんな時にあせって手足をもがくと却って遅くなるので、静かに身体を垂直にしていると、すぽりと容易く頭が水面を突き抜けるような形に浮き上るということも、間もなく呑み込むことが出来た。
穴を覗いて行くうちにかさごに出会うことがよくあった。少し薄暗く見える奥の方に、あの大きい頭ときょとんと前に向いた二つの大きい眼とを見ると、思わず緊張する。運よく息がまだ続く時で、最初の緊張のとたんに魚刺をふるった場合は時々は巧く行った。しかし少し大きい魚の時など、慎重を期して一度浮び上って息をととのえてまた潜ったりすると大概は失敗した。魚を突くのは本当の気合もので、見つけてから一度落付いて静かに安全な所まで近寄ってなどという風に、ちょっと気を抜いたら大抵は逃してしまうようだった。こちらが余裕をつけている間に、魚の方もちょっと身体を動かして、待機の姿勢というかたちになって待っている。そうなったらとても吾々の手には負えぬのである。
章魚はなかなか漁れなかった。島の根本の深く刳られた岩洞の奥には沢山いるらしかったが、そこへはとても潜り込む勇気はなかった。深さからいったら、大抵は奥行五尺位の簡単な洞穴だったが、奥の方を覗いて見ると、真暗なような気がして、それに水の色が妙に濃く碧玉色に澄んでいて、潜り込んだら最後身体が岩洞の天井に吸いつけられそうな気がした。勿論そういう岩洞は遠くから見ただけで失礼して、島の根本を半ば潜りながら周って行く。すると稀れには小さい穴の底から、藻と章魚の足とがもつれあってゆらゆらとなびき出ているのを見付けることがある。章魚は岩や藻とほとんど同じ色をしているので、馴れるまではなかなか見付からない。小さい章魚でも生きているうちはとても強いもので、特にあの沢山の足が腕にまつわりついて吸い付かれては耐らないので、ここと思う所を魚刺で突いて見る。巧く当ると章魚は慌てて足で魚刺の柄にからみついてくる。そこでぐいぐいと魚刺をひねると、章魚は苦しまぎれに全部の足で柄に吸いつく。そうなればわけなく漁れるのであるが、なかなかいつもそう巧くはいかない。途中で息が苦しくなって浮き上ったりしているうちに逃がしてしまうことも勿論度々ある。
吾々が狙うのは章魚とか、かさご類のいわゆる底魚であるが、黒鯛の子だのべらだののように、途中を泳いでいる連中も上手な人には突けるのだそうである。黒鯛の子はいつも沢山で群をなしている。底に潜ってじっとしていると、すぐ眼の前を敏捷な姿で後から後からと続いて通り過ぎて行く。少し丈けの高い海藻のゆれている所が、連中には御気に入りの場所と見えて、藻の間を縫って廻り灯籠のように、いつ迄もひらひらと廻っていることが多い。この辺の土地では、釣りの餌に使うごかいをとるのは主としてこの岩礁地帯である。岸に近い背の立つ程度の浅い所で、よく漁師が鉄の楔を底の岩に打ち込んでは岩をはがしているのを見ることがある。手頃な岩片がはがされて、岩の中に孔をつくってひそんでいたごかいが顔を出すのを、漁師は大急ぎで潜ってとるのである。ちょっとでも愚図愚図していたら黒鯛にとられてしまうので、岩を剥がしたら、まだ濁りの去らぬ水の中へ逆まに潜り込んで行くのである。楔を打ち込む音がすると、黒鯛は沢山集ってきてその周囲に待っている。そして岩が剥がされると、すぐさっと飛び込んできてごかいを持って逃げて行く。漁師はいまいましがって追うのであるが、黒鯛の方は平気である。こういうところを見ると、魚と漁師とは仲のいいものである。
魚を追っかけているうちに段々沖へ出て、岩礁地帯のはずれ近くまで行くことがある。そのあたりへ行くと、岩礁は脈になって沖へ延び出ているので、脈と脈との間は狭い峡谷になって深く切れ込んでいる。谷の底は砂地で、急に十尋位の深さになっている。水はにわかに暗緑色になって、その暗い底の砂地が妙に綺麗になだらかになっているのがかえって気味が悪い。潜っているうちに、少し深くなって岩の色が変ってきたと思うと、その隣りは恐ろしい深い谷になっている。そしてその青く暗い谷底が、綺麗な砂地になって藻さえ生えていないのが、何だか生物の世界でない世界の入口のように見える。潜りながら急にこの海の底の谷間を覗き込んだ時の神秘的な恐ろしさは、ちょっと外では経験出来ない感じである。そんな時に周囲を見廻して誰もいなかったりしたら大変である。大急ぎで真剣になって泳いで逃げ帰るのであるが、岸へ上っても心臓の鼓動はなかなか止らない。
日本海の海岸は年々に沈んで行くといわれている。弁慶で有名な安宅の関というのは、私たちの毎夏行った所から数里と距っていない所であるが、当時の関趾は今では半里も海の沖になっているという伝説がある。晴れた日に海がよく澄んでいると、水底に鳥居のような形のものが見えるという話であるが、私は覗いて見たことはない。澄んだ深い海の底を覗くことは非常に恐ろしいものである。あの真蒼な暗い碧玉色の海の底に、人間の遺跡を示すようなものが見えたら、どんなにぎょっとすることかと思うと、とてもそんな所へ行って見る勇気は出ない。
そういう伝説は日本海の沿岸到る所にあるらしいが、その外にも時々漁師の網に石器時代の住民の使った土器がかかってきたという話もある。それも一つや二つの例ではないので、日本海の沿岸の大部分の土地が年々沈降して行くという話は、大抵の人は信用していることである。この問題は地球物理学的に見て、特に日本の島嶼の成因とか、日本の地震の問題とかに関連して大切な事柄なのであるが、本当の証拠になるような資料は思いの外乏しいようである。例えばある海岸の地点の五十年前の写真と、同じ場所の現在の写真というようなものとを比較することが出来たら、所によっては案外それ位の年月の中でも、はっきりした証拠が出てこないとも限らないと思われるが、そういう例もあまり見たことがない。
中学時代の海浜生活の旧い紀念写真を眺めながら、色々の思い出に耽って見たが、魚刺を持って魚を追い廻すようなことはもう二度とは出来そうもない。しかし魚刺を小脇に岩頭に立っている勇しい写真の方は、あるいは日本列島の構造の研究になんらかの貢献をする日がこないとも限らないだろうと、変った夢を描いて見るのはちょっと楽しみである。いつか暇が出来たら、あの同じ土地へもう一度行って見たいと思うこともあるが、漁村の姿には昔の面影も残っていないことだろうと思われる。
(昭和十三年五月)