温泉(二) 中谷宇吉郎

温泉(二)

中谷宇吉郎

2026.9.4.

已是二十多年前的事了。我曾和弟弟一起在巴黎住过一阵子。我是文部省的留学生,弟弟搞考古学,只从特罗卡德罗博物馆领到微薄的津贴,两人都穷得叮当响。

因此必须尽量节省生活费。像自费赴法的画学生那样自己开伙是最便宜的,按当时的物价,一个月五十日元左右就能过活。但那样会妨碍学业,最终我们住进了蒙苏里公园尽头的日法学生会馆。

这类会馆生活极为方便且费用低廉,这方面无可挑剔。只是总觉得日子过得有些萧索,加上在外国待久了,大家的心境都渐渐荒疏起来,不免弥漫着一种索寞之感。所以同住的人们常常跑到巴黎的繁华街区去消遣。

然而我们两人——主要还是因为没钱——大抵老老实实地每晚在学生食堂吃饭,夜里读书度日。去年获得学士院奖的数学家O君也是我们一伙,三个人总是像金鱼的尾巴一样连在一起,穿过走廊去另一栋楼的食堂吃饭。

这会馆最大的好处是随时可以泡澡。不用说现在,即便在当时,美国的浴缸随时放热水已是寻常事。但在欧洲,普通家庭还做不到随时洗澡。我和弟弟都生在温泉乡,极爱泡汤,所以在洗澡这一点上,对这会馆大为满意。

傍晚从外面回来,先泡一个澡。夜里各自忙到十二点左右,累了便相约走过长长的走廊去浴室。浴槽各自在隔间里,像厕所一样排列着。泡完出来,便到谁的房间里乘凉,天南地北地闲聊一个来钟头,然后各自回房睡觉。真是一群模范生。

然而起初还觉得满足,渐渐习惯之后,日本的澡堂就越来越令人怀念了。这也是理所当然——细想起来,西洋的澡堂说到底是卫生设备,毫无娱乐成分。钻进壁橱般的小间,往棺材似的浴缸里放水,然后一动不动地躺在里面。在狭窄隔间里热气蒸腾之中匆匆洗完身子便逃出来,才是常态。我们倒是相当悠闲地躺着,但说实话还是没什么泡澡的感觉。

不知哪次泡完澡后的闲聊中,话题转到了日本钱汤与西洋浴室的优劣比较。若论传染病,西洋式自然更卫生无疑,但我们三人毫无异议都是日本钱汤的拥趸。宽敞的浴室,浴槽里满满当当的热水,冲洗处可以哗哗地随意用水。细想起来,这实在是相当奢侈的事,享受过这般奢侈之后,才会有所谓"泡完澡的舒爽心情"。不必多说,西洋浴室没有冲洗处,所以要在浴缸里打肥皂。然后从变成浅灰色的肥皂水表面浮着污垢之中站起来。神经质的人会把这水放掉,重新放一缸水再洗一遍,但这样的人是少数。所以西洋浴室在细菌学意义上虽然清洁,在心理意义上却不太清洁。

本来就偏爱钱汤的人,什么道理都能找出来。西洋浴室不值一提,日本钱汤才是高级货——大家一致同意,毫无异议。心理上感觉清洁的,确实更高级。

然而问题在于温泉。钱汤固然高级,但再好的钱汤也比不上温泉。这也因为本来就更喜欢温泉,所以道理很简单。接下来提出的重大课题是:泡温泉时那种舒展自在的感觉,究竟从何而来?

周围风景好、离开都市去了乡下、不像钱汤那么拥挤——理由可以举出一堆,但我们这些人不是那种月並(平庸)解释就能打发的。各自把物理学、数学、考古学的学识全盘倾倒出来,争论了好一阵。最后三人一齐拍膝叫道:"就是这个!"终于得出了结论——"普通澡堂要跨进去,温泉则不用跨。"

如今有些温泉像普通钱汤一样做成了浴槽式,仍然要跨进去。但那属于邪道,真正的温泉本该是向下挖低、形成汤池。从冲洗处走过去,"扑通"一声直接踏入水中——温泉的价值就在这里。如果还要手扶浴槽边缘、抬脚跨进去才能泡到水,那何必大老远跑到温泉去呢。

泡温泉的感觉,在于把头靠在浴池边沿上,舒展身体浮在水中。若浴槽边沿太高,就极不方便。再说得玄妙一些——自然界的水池都是池子状,没有浴槽那样高高的边沿。在苍郁森林环抱的一小片浅绿色空地上,有一汪清澈透明的美丽水池。宁芙在其中沐浴时,用脚尖一步一步踩着池底细沙缓缓走入水中,那才是"宁芙沐浴图"。要是"嘿咻"一声跨过框板再入水,什么画也画不成了。

这当然是玩笑话。但温泉浴槽向下挖低做成汤池是营造温泉氛围的一个要素,这个想法似乎确实有道理。说来好像在小题大做,但人的心情这种东西,意外地容易被一些微不足道的琐事所左右。而且这种情况下,在深处与自然形态有一脉相通之处,所以格外有力。

这里所说的舒展自在的感觉,细想起来是相当复杂的情操。我对心理学一窍不通,在这个意义上什么也说不了,但构成要素中包含"贴近自然"这一点,大概是确定无疑的。此外还有一个重要的要素,那就是"丰裕"。抠抠搜搜的,人是很难悠然自得的。

如此说来,温泉浴槽之所以做成那种形状,前提是水量充沛、可以随时任其流淌。正因为水总是满满地溢出,做成汤池也能保持清洁的感觉。浴槽低于行走面,本来难免显得有些不洁。事实上,设想一下这种形式的温泉如果水只有八分满,恐怕就有点不想进去了。温泉的美妙之处在于,静静沉下身体,热水便哗啦啦地溢出来。那水在冲洗处造成小小的泛滥,小木桶晃晃悠悠地漂着流走——如此便是满分了。

钱汤式的浴槽,八分满就人人满意了。进去时水不从槽边溢出来,也很少有人抱怨。这种情况下不太觉得脏,是因为浴槽里的水面即便只有八分,仍比冲洗处的地面要高。所以用燃料加热的洗澡水,必须用高边浴槽才行。

因此,向下挖低的温泉浴槽之所以好,是因为随时有热水溢出的前提条件。也就是说,始终任其流淌,温泉的价值才能发挥。而从前的日本温泉大多正是这种做法。这是相当奢侈的事。近来著名温泉地新建的大酒店,搞什么大理石浴槽之类豪华设施,多为钱汤式样的。大概是温泉水量不够了吧。

这样看来,比起酒店的大理石浴槽,乡下温泉地任由泉水流淌的简陋石砌汤池,反而奢侈得多。不论昼夜,从水渠出口哗哗涌出的那些热水所含的热量,若要用煤炭来供给,恐怕一个月得烧五十吨左右。一吨按一万日元计算,就是五十万日元。每月泡在五十万日元的水里,心胸稍微开阔些也不足为奇。所以泡温泉才更舒展自在。

"温泉不用跨进去"说到底,就是大量使用近乎无穷无尽的地热资源。单是一个泉口,一年就相当于约五百万日元的煤炭,实在是一笔阔气的账。全国的温泉泉口有多少我不清楚,少说也有几万个。即便只取就近的两万个来算,仅此一项换算成煤炭,一年流淌的热量就达一千亿日元。数值稍有偏差也无妨,总之确是远超常识的庞大热量。

然而温泉携带的热量相比地热总量不过是其中极小一部分,真正是九牛一毛。因此,若能巧妙利用地热的哪怕一小部分,也将成为日本的重要能源。日本雨水和雪水极为丰沛,拥有极其丰富的水资源,这一点如今已渐渐成为常识。但日本除了丰富的水力发电资源之外,还有另一项巨大的能源,那就是地热。

地热并非什么新鲜话题,很久以前就在一部分人中时常讨论。宫城县某温泉地,已有人自费进行钻探,获取大量过热蒸汽并用于动力的研究,基本完成。这类研究若能再推进一步,我国地热利用的前景将豁然开朗。国家在这方面多投入些力量,似乎才是正理。

说到地热利用,记得某次报纸曾大篇幅报道"地热发电"的问题。好像是九州别府,说是试验成功,接下来要建造小规模发电站。之所以说得含混,是因为我对这个问题目前兴趣不大。也许有些冒犯,坦白说我对地热利用本身极有兴趣,但对发电这一环节却暂时提不起劲。比地热容易得多的水力资源开发都没好好研究,就去拼命搞地热发电,实在没有必要。

地热发电最发达的国家是意大利,某地区已取得相当成绩并投入实用。意大利与日本一样是地震国,火山和温泉都很多,因此地热资源十分丰富,地热发电研究自然做得好。那日本似乎也该大搞特搞,但必须考虑的是意大利与日本的国情截然不同。意大利几乎没有煤炭,水资源也极为匮乏,在这样的国家大力发展地热发电理所当然。然而像日本这样把充沛的水资源大量白白弃掉的国家,与其搞地热发电,不如先将水的利用效率稍微提高一些,这才是正途。所以我对地热发电暂时兴趣不大。不过这类研究中大部分努力花在地热利用本身,发电环节并无太大困难,因此研究结果对其他地热利用问题的解决大有贡献,绝非毫无意义,毋宁说应当鼓励。如果用地热发电这个名义更容易推行,那就以此大力推进。只是应该了解问题的本质。

关于地热利用,提出了非常有趣想法的是野口研究所的工藤氏。以下是工藤氏观点的转述:地热利用最有利的方式,是将过热蒸汽直接应用于需要它的工业。确实如此。大量需要过热蒸汽的工业——纸浆、硫磺精炼等等——不一而足。如果能用地热替代这些行业中使用的煤炭的一部分,将是极大的国家利益。

地热利用的实施方法,原则上只是打入管道、让过热蒸汽喷涌而出。这一点已经过试验验证,并无显著困难。寿命方面也无需担忧——千年前就已为人所知的温泉至今仍流淌着热水,足见其近乎半永久。说它的寿命堪比核反应堆,大抵没有问题。美国靠原子能,日本以温泉来对抗——倒也是个不错的构思。若全世界都走上这条路,诚然是可喜之事,但似乎没那么容易。以上这番话,究竟是正经话还是开玩笑,恐怕不太好分辨。觉得是笑话的,就当它是一个笑话。觉得说不定是真的,那就不妨保持关注。

去雪国的温泉,泡在汤里眺望窗外的雪景,大概谁都不会太讨厌。那时想想:满山的积雪全是水力发电,而这温泉之源——地热——终将供给日本的热能——倒也是一种不坏的雅趣。

(昭和二十七年三月《All读物》)

温泉2

中谷宇吉郎

 もう二十年以上も昔の話であるが、弟といっしょに、しばらくパリで暮したことがある。私は文部省の留学生であり、弟は考古学をやっていて、トロカデロの博物館から僅かばかりの手当をもらっているだけで、二人ともはなはだ貧乏であった。

 それでなるだけ生活費のかからぬように暮す必要があった。自費洋行の画学生たちのように、自炊生活をするのがいちばん安いわけであって、それだと当時の金で、一ト月五十円ぐらいで暮せた。しかしそれでは勉強の邪魔になるので、けっきょくモンスーリ公園のはずれにあった、日仏学生会館に入ることにした。

 ああいう会館は、生活には非常に便利で、かつ安あがりでもあって、その点は申し分がなかった。しかしなんとなく生活が殺風景になり、それに外国にしばらくいると、みな気分が荒すさんでくるので、とかく索莫たる感じが漂いがちであった。それで同宿の連中は、よくパリの繁華街のほうへ遊びに出かけたようであった。

 しかしわれわれ二人は、金がないというのが主な理由で、だいたい神妙に、毎晩学生食堂でめしを食って、夜は本を読んでくらしていた。昨年学士院賞をもらった数学者のO君も私たちの仲間で、いつでも三人金魚の糞のようにつながって、別棟の食堂へ通ったものであった。

 この会館のいちばんの取柄は、風呂がいつでも使えることであった。現在はもちろん当時でも、アメリカでは、浴槽に熱い湯が常時出るのが普通であった。しかしヨーロッパのほうでは、一般の家庭では、いつでも風呂が使えるというわけにはいかなかった。私も弟も温泉地生れで、湯は大いに好きだったので、風呂の点では、この会館が大いに気に入っていた。

 夕方そとから帰ってくると、まず一ト風呂浴びる。夜は十二時頃までそれぞれ仕事をしていて、くたびれると誘い合わせて、長い廊下をわたって浴室へ行く。浴槽はそれぞれコンパートの中にあって、それが便所のように並んでいる。湯からあがると、誰かの部屋で涼みながら、とりとめもない話を一時間くらいやって、各々自分の部屋へ帰って寝る。まことに優等生ぞろいであった。

 ところで初めのうちは、これで一応満足していたのであるが、少し馴れてくると、日本の風呂のほうが、だんだんなつかしくなってきた。当然のことであって、考えてみれば、西洋の風呂というものは、あれは衛生設備であって、娯楽的要素はぜんぜんないものである。押入れみたいなところへはいって、お棺みたいなものに湯を入れ、その中でじっと横になっているだけである。狭いコンパートいっぱいに湯気がもうもうとしている中で、大急ぎで身体を洗ってとび出すのが普通である。もっとも私たちは、かなり悠々とねそべっていたわけであるが、それでも実は風呂の感じはあまり出なかったのである。

 いつか湯あがり後の雑談に、日本の銭湯と西洋風呂との優劣論がでた。伝染病のことを思えば、西洋式のほうが衛生的であるにきまっているが、三人とも文句なく、日本の銭湯の礼讃者であった。ひろびろとした浴室で、湯は浴槽にたっぷりある。流し場では、ざあざあと湯をふんだんに使える。考えてみると、なかなか豪奢なことをやっているもので、あの豪奢を享楽した後だから、いわゆる湯あがりの気分が出るのかもしれない。説明するまでもないことだが、西洋風呂には、流し場がないから、浴槽の中で石鹸を使う。そして薄鼠色になった石鹸水の表面にあかが浮いている中から、あがってくるわけである。神経質な人の中には、この湯を一度流して、また新しい湯を浴槽に入れて、改めて身体を洗う人もあるが、そういうのは少ない。だから西洋風呂は、細菌的には清潔であっても、心理的にはあまり清潔でない。

 もともと銭湯のほうが好きな連中のことだから、理窟はどうにでもつけられる。西洋風呂などはつまらないもので、日本の銭湯のほうが、ずっと高級なものだということに、異議なく一致した。心理的に清潔なほうが、たしかに高級である。

 ところで問題は温泉である。銭湯はまことに高級なものであるが、どんなりっぱな銭湯でも、温泉にはやはりかなわない。これも、もともと温泉のほうが好きなのだから、話は簡単である。温泉に浸った時の、あののびのびした感じというものは、いったいどこからくるのだろうかというのが、次の重大な課題として提出された。

 周囲の景色がよいからとか、都会を離れて田舎へ出かけていくからとか、一般に銭湯ほど混まないからとか、理由はいくらもあげられるが、そういう月並な説明で満足するやからではない。各々物理学と数学と考古学とのうんちくを大いに傾けて、さんざん議論をした。そのあげく、三人ともはたと膝をたたいて「それだ」という結論に遂に到達することができた。それは「普通の湯ではまたいではいるが、温泉ではまたがなくていい」というのである。

 この頃の温泉には、普通の銭湯のように、湯槽になっていて、やはりまたいではいるのがある。しかしああいうのは邪道であって、ほんらいの温泉には、低く掘り下げて、湯池になっているべきものである。流しを歩いて、そのままどぶんと湯の中にはいりこめるところに、温泉の値打ちがある。浴槽に手をかけて、足を持ちあげて、またいでやっと湯にはいるくらいなら、なにも温泉まで出かけていくことはない。

 温泉に浸る感じは、浴槽のヘリに頭をもたせかけて、長々と身体を浮かせるところにある。それにも高いヘリのある湯槽では、はなはだ不便である。それから、話が少し幽玄になるが、自然界にある浴池は、みな池になっていて、湯槽のような高いヘリはない。鬱蒼たる森に囲まれた浅緑の小さい開け地の中に、水の透明な美しい池があるとする。ニンフがそこで浴ゆあみをする時、爪先からそろそろと水底の小砂利を踏んではいっていってこそ、ニンフ水浴の図になる。「やっこらしょ」と枠板をまたいで、水の中にはいるのでは、絵にもなんにもなるものではない。

 これはもちろん冗談である。しかし温泉の浴槽が、低く掘り下げられて湯池になっていることが、温泉の感じを出す一つの要素であるという考えは、どうも本当らしい。妙なことに力瘤を入れるようであるが、人間の気持などというものは、あんがいにつまらぬ瑣細なことにひどく左右されるものである。そしてこの場合は、奥のほうで、自然の姿に一脈のつながりをもっているので、とくに有力に効いているのではないかと思われる。

 ここでいうのびのびとする感じというのは、考えてみると、かなり複雑な情操である。心理学のことは何も知らないから、そういう意味では何もいえないが、その構成要素の中には、自然に近いという点が一つはいっていることは、まず確かであろう。その他にいま一つの大切な要素としては、豊かであることが必要であろう。けちけちした話では、人間なかなかのんびりはできないものである。

 そういえば、温泉の浴槽がああいう形になっているためには、湯が豊富で、いつも流し放しにしておけることが必要である。湯がいつもいっぱいにあふれているから、湯池にしておいても清潔な感じが保てるのである。浴槽が歩く面より低いのであるから、本来ならば、なんとなく薄汚なく見えてもしかたがないところである。事実、この型の温泉で湯が八分目しかない場合を想像してみたら、ちょっと進んではいる気はしない。温泉の徳は、静かに身体をしずめると、湯がザーッと溢れるところにある。その湯が流し場に小氾濫を起して、小桶がぶかぶかと浮いて流れでもすれば、まさに満点である。

 銭湯ふうの湯舟では、八分目くらい湯がはいっていれば、誰でも一応満足する。中へはいった時に、湯舟のヘリを越して湯があふれ出ないといって文句をつける人はめったにない。この場合、薄汚ないという感じがあまりしないのは、湯舟には八分目でも、その湯の面は流し場の面よりも高いからであろう。だから燃料を使う湯では、ヘリを高くした湯舟にしなければならないことになる。

 それで低く掘り下げた温泉の浴槽がよいというのは、それにいつでも湯があふれているという条件があってのことである。すなわち、始終流し放しにしておくことができて、はじめて温泉の値打がでてくるのである。そしてじゅうらいの日本の温泉は、たいていこの流儀になっていた。これはずいぶん贅沢な話なのである。このごろ有名な温泉場にできる大ホテルなどでは、大理石の湯舟など豪勢なもので、銭湯式のやつがよくある。たぶん温泉の量が足りなくなったからであろう。

 こういうふうに考えてみると、ホテルの大理石の湯舟よりも、田舎の温泉地で流し放しにしてある、粗末な石畳みの湯のほうが、ずっと贅沢なものなのである。昼夜の別なく、樋の出口から勢いよく流れ出ているあの湯の熱量を、もし石炭で補給するとしたら、おそらく月に五十トンくらいは燃さなければならないであろう。一トン一万円として、五十万円になる。月に五十万円の湯に浸っているのであるから、少しくらい気宇宏大になってもふしぎではない。だから温泉のほうがのびのびするはずである。

「温泉の湯は、またがなくてもいい」というのは、けっきょくは、無尽蔵に近い地熱という資源を、ふんだんに使うということである。一つの湯口でも、年に五百万円くらいの石炭に相当するわけであるから、まことに景気のよい話である。全国の温泉の湯口が、いくつあるかは知らないが、少なくも数万個はあるであろう。かりに手近なもの二万個をとってみても、それだけで石炭に換算して、一千億円分の熱量を、一年に流していることになる。数値は少しくらい違ってもいいので、とにかくちょっと常識を超絶する莫大な熱量であることだけは確かである。

 ところで温泉のもってくる熱量くらいは、地熱からみたらそのほんの一部にすぎない。文字どおりに九牛の一毛である。だから地熱のほんの一部でも、もし巧く利用することができれば、これまた日本の重大なエネルギー資源となる。日本には雨と雪とが非常に多い。したがってきわめて豊富な水資源に恵まれていることは、今日ではようやく常識になりつつある。しかし日本には、この豊富な水力電気資源のほかに、いま一つの大きいエネルギー資源があって、それはこの地熱である。

 地熱のことは、何も新しい話ではなく、もうだいぶ以前から、一部の人々の間には、しばしば論議されている問題である。宮城県のある温泉地で、自費をもってボーリングを行ない、大量の過熱水蒸気をえて、それを動力として利用する研究を大半完了した篤志家もすでにある。こういう研究がいま少し進めば、我が国における地熱利用の問題も、急に前途が開けてくるであろう。この種の研究にこそ、国家はいま少し力をいれたほうがよさそうなものである。

 地熱利用といえば、いつかの新聞に大々的に報道された「地熱利用発電」の問題がある。九州の別府だったかと思うが、一応の試験に成功したので、いよいよ小規模の発電所を作るという記事を読んだ記憶がある。こういう曖昧なことをいうのは、実は私はこの問題について、今のところあまり興味がないからである。少しさし障りがあるかもしれないが、正直にいえば私は地熱利用までは大いに興味をもっているが、あとの発電のほうには、さしあたってはそう気乗りがしない。地熱などよりももっとずっと手軽にできる水力電源の開発について、ろくな研究もしないでおいて、地熱発電の研究に血道をあげることはないからである。

 地熱発電のいちばん発達している国はイタリアであって、ある地域ではすでに相当な成績をあげて、実用にもなっているそうである。イタリアも、日本とよく似た地震国で、火山と温泉とがたくさんある。したがって地熱には大いに恵まれている。それで地熱発電の研究がよくなされたわけである。それでは日本でも大いにやったほうが良さそうなものであるが、ここで考えねばならないことは、イタリアと日本とでは、国情がまるでちがう点である。イタリアには石炭は皆無に近く、また水資源も非常に乏しい国である。そういう国では、地熱発電に大いに力を入れるのが当然である。しかし日本のように有り余る水をふんだんに棄てている国では、地熱発電よりも、この水の利用度をほんの少しばかり向上させるほうに進むのが、順路であろう。だからさしあたってのところは、この地熱発電にはあまり興味がないわけである。もっともこういう研究は、地熱利用のほうに大半の努力が払われるもので、発電のほうには大した困難がない。それでこの研究の結果は、他の地熱利用の問題の解決に、大いに貢献するであろうから、けっして無意味だとはいわない。むしろ奨励すべきことである。地熱発電といったほうが通りがよいのならば、それで大いに進んだほうがよい。ただ、問題の本質を知っておいたほうがよいであろう。

 地熱利用について、非常におもしろい考えを提唱しているのは、野口研究所の工藤氏である。以下工藤氏の受け売りであるが、地熱の利用は、過熱水蒸気をそのまま使う工業に応用するのが、いちばん有利であるという説である。まさにそのとおりであろう。過熱水蒸気を多量に必要とする工業は、パルプでも、硫黄精錬でも、そのほかいくらでもある。そういうところで使っている石炭の一部でも、地熱で置きかえられたら、大した国益になるであろう。

 地熱利用の実行方法は、原則としては、パイプを打ちこんで、過熱水蒸気を噴出させるだけのことである。そしてそれはすでに試験済みで、そう著しい困難はないことが、よくわかっている。寿命のほうも、何も心配はないので、千年以上も昔から知られている温泉が、今日までもやはり熱湯を流しつづけているところからみても、まず半永久的と考えてよい。原子炉くらいの寿命はあると思って、まずさしつかえないであろう。アメリカの原子力に対して、日本は温泉でもって対抗するというのも、ちょっと悪くない趣向である。世界がみなこういう調子にいけば、まことにめでたい話なのであるが、なかなかそうはいかないようである。以上の話は、まじめな話か、ふざけているのか、ちょっとわからないであろう。冗談と思われる方には、これは、一つの笑話である。ひょっとすると本当かもしれないと思われる方はひとつ関心をもっておいていただきたい。

 雪国の温泉へ行って、湯にひたりながら、窓外の雪景色を眺めるのは、だれでもそう嫌いではないであろう。その時あの全山の雪がぜんぶ水力電気であり、この温泉の源たる地熱が、やがては日本の熱エネルギーをまかなってくれるだろうと考えてみるのもちょっと悪くない趣味である。

(昭和二十七年三月『オール読物』)

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