皆さん、こんにちは。日本語の声へようこそ。Katyaです。今天分享一篇文章『字のないはがき』。
FILL IN LOVE WITH YOU
字のないはがき
--向田邦子
死んだ父は筆まめな人であった。
父亲生前是个酷爱动笔的人。
私が女学校一年で初めて親元を離れたときも、三日にあげず手紙をよこした。当時保険会社の支店長をしていたが、一点一画もおろそかにしない大ぶりの筆で、
记得在我上女校一年级,初次离开父母的时候,还没到三天信就寄来了。当时在保险公司当分店长的父亲,一笔一画、一丝不苟地用大号笔写着。
「向田邦子殿」
“向田邦子阁下”
と書かれた表書きを初めて見たときは、ひどくびっくりした。父が娘あての手紙に「殿」を使うのは当然なのだが、つい四、五日前まで、
初见这样的信封,我十分震惊。当然,父亲给女儿写信时使用“阁下”这一字眼,本不是什么非同寻常的事,但是,就在四五天前,父亲还在:
「おい、邦子」
“喂!邦子!”
と呼び捨てにされ、「ばかやろ!」の罵声やげんこつは日常のことであったから、突然の変わりように、にそばゆいような晴れがましいような気分になったのであろう。
这样叫我。而且,还常常挥舞着拳头毫不客气地教训我,说:“笨蛋!”可现在却突然是天壤之辈,这真是让我感到既害羞又难为情。
文面も、折り目正しい時候のあいさつに始まり、新しい東京の社宅の間取りから、庭の植木の種類まで書いてあった。文中、私を貴女と呼び、
信的正文总是从彬彬有礼的季节寒暄开始,从东京那边新的公司宿舍的房屋格局,到院子里所栽种的花木种类等等都写在了信里。在信中,还称呼我为“您”。
「貴女の学力では難しい漢字もあるが、勉強になるからまめに字引を引くように。」
という訓戒もをそえられていた。
“以您目前的学习状况来看,肯定(会觉得)有一些汉子很难吧?时而翻翻字典吧,会有帮助的。”
父亲在信中还会加上这样的勉励之语。
ふんどし一つで家じゅうを歩き回り、大酒を飲み、かんしゃくを起こしで母や子供たちに手を上げる父の姿はどこにもなく、威厳と愛情にあふれた非の打ち所のない父親がそこにあった。
每当这个时候,那个只穿着条兜裆布在屋子里来回乱晃、酗酒严重、大动肝火地对妻子和孩子们动手的父亲的形象,就会飞到九霄云外去。取而代之的,是一个充满威严与父爱的完美的父亲形象。
暴君ではあったが、反面照れ性でもあった父は、他人行儀という形でしか13歳の娘に手紙が書けなかったのであろう。もしかしたら、日ごろきはずかしくて演じられない父親を、手紙の中でやってみたのかもしれない。
性格粗暴却也十分腼腆的父亲,或许只会通过这种客客气气的方式跟13岁的女儿写信吧?大概只有在信里,羞于表露舐犊之情的父亲才能够真情流露吧。
手紙は一日に二通来ることもあり、一学期の別居期間にかなりの数になった。私は輪ゴムて束ね、しばらく保存していたのだが、いつとはなしにどこかへ行ってしまった。父は64歳でなくなったから、この手紙のあと、かれこれ30年付き合ったことになるが、優しい父の姿を見せたのは、この手紙中だけである。
有时候一天会来两封信。结果,仅仅离开家一学期的时间我就收到了很多封父亲的来信。我把它们用皮筋捆了起来,保存了一段时间,但现在它们已不知所踪了。父亲是64岁时去世的,在我收到那些信件之后,我又陪伴父亲走过了30多年的日子,但是父亲的慈父形象我却只在信里见到过。
この手紙も懐かしが、最も心に残るものをと言われれば、父があて名を書き、妹が「文面」を書いた、あのはがきということになろう。
这些信件诚然令人无比怀念,但是比起这些信,最令我难以忘记的,却是那些由父亲写收信人名字、由妹妹写“内容”的无字的明信片。
終戦のときの四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼く不憫だというので、両親がてばなさなかったのである。ところが、三月10日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらのめにあい、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。
在战争结束的那年的4月,我最小的妹妹被送到甲府,名为转学,实为被送到那里保命。在前一年的秋天,在同一所小学就读的我的大妹妹已经被送走了。由于小妹妹太过年幼,实在不舍,所以父母并没有把她送走。谁曾想,在3月10日的东京大空袭中,连我的家也被烧毁,我们勉强捡了条命,所以才狠心下了决定。这样总比一家人都没命强。
妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札を付け、父はおびただしいはがきにきちょうめんな筆で自分あてのあて名を書いた。
决定把小妹妹送走的那晚,在昏暗的灯光下,母亲低着头为小妹妹缝制内衣,并缝上了名字,用的是当时已经成为奢侈品的白布。父亲则在一大摞明信片上认真地写着自己的名字和地址。
「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」
と言って聞かせた。妹は、まだ字が書けなかった。
“健康快乐的日子,就在这上面画一个圆圈,每天放入邮筒里一张。”
父亲对小妹妹说。小妹妹当时还不会写字。
あて名だけ書かれたかさ高なはがきの束をリュックサックに入れ、雑炊用のどんぶりを抱えて、妹は遠足にでも行くようにはしゃいで出かけて行った。
于是,小妹妹背着装满了那厚厚一摞只写着收件人姓名和地址的明信片的大背包,抱着一个吃稀饭用的大碗,像去远足一样欢呼雀跃地出门了。
一週間ほどで、初めてのはがきが着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付き添って行った人の話では、地元の婦人会が赤飯やぼた餅を振る舞って歓迎してくださったとかで、かぼちゃの茎まで食べていた東京に比べれば大マルに違いなかった。
大约一周后,第一封明信片寄来了。上面用红色铅笔画着一个大大的,很有气势的圈,仿佛都要冲出纸外了。我们听送她去的人说,当地的妇女协会用红豆饭和牡丹饼来欢迎她。与吃南瓜秧的东京相比,自然是一个很大的圆圈了。
ところが、次に日からマルは急激に小さくなっていった。情けない黒鉛筆の小マルは、ついにバツに変わった。そのころ、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に会いに行った。
可是第二天,寄来的圆却急剧缩小。慢慢地,黑铅笔画的小圆圈,最终变成了一个叉。那时,被疏散到距离小妹妹不太远的地方的大妹妹去看望了小妹妹。
下の妹は、校舎の壁に寄り掛かって梅干しのたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをぺっと吐き出して泣いたそうな。、
当时,小妹妹正倚着学校的围墙,嘴里砸吧着梅干的核,一看见自己的姐姐,“噗”地一下,吐出梅核,大哭起来。
まもなくバツのはがきも来なくなった。三月目に母が迎えに行ったとき。百日ぜきをわずらっていた妹は、しらみだらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。
很快,画着叉的明信片也没有了。听说,第三个月母亲去接小妹妹回家的时候,当时小妹妹正患百日咳,在一间不足3个榻榻米大的房间里睡着,头上生满了虱子。
妹が帰って来る日、私と弟は家庭菜園のかぽちゃを全部収穫した。小さいのに手を付けると𠮟られる父も、この日は何も言わなかった。私と弟は、人抱えもある大物から手のひらにのるうらなりまで、二十数個のかぽちゃを一列に客間に並べた。これぐらいしか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。
小妹妹回家的那天,我和弟弟把家中菜园子里面的南瓜全摘了下来。那些小小的南瓜,平时我们碰一下,父亲都会训斥。但是那天,他却没有说什么。我和弟弟把从两手抱不过来的大南瓜到可以放在手掌上的小南瓜,一共二十几个,在客厅里排成一排。没有什么方法能比这个更能哄小妹妹高兴的了。
夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
「帰ってきたよ!」
と叫んだ。茶の間に座っていた父は、裸足で表へ飛び出した。瘦せた妹の肩を抱き、声をあげて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。
深夜,一直趴在窗口张望的弟弟突然喊了起来:
“回来了!”
坐在茶房里的父亲鞋都没穿就奔了出去,一把抱住骨瘦嶙峋的小妹妹的肩膀,放声痛哭。这是我第一次见到父亲哭泣,也是我第一次见到一个大男人哭泣。
あれから31年。父は亡くなり、妹も当時の父に近い年になった。だが、あの字のないはがきがどこにしまったのかそれともなくなったのが、私は一度も見ていない。
事情已经过去31年了,父亲早已过世,小妹妹也到了父亲当时那个年纪。而那些无字的明信片,不知是被谁收起来,亦或是弄丢了,我再也没有见过。
では、今日はこれで、皆さん、おやすみなさい。
=小编=咸咸
=主播小姐姐=