私のうちの庭は、わりに背の高い四つ目垣で、東西の二つの部分に仕切られている。東側の方のは、応接間と書斎とその上の二階の座敷に面している。反対の西側の方 は、子ども部屋と自分の居間と隠居部屋とに三方を囲まれた中庭になっている。この 中庭の方は、垣に接近して小さな花壇があるだけで、方三間(三間四方。一間は約一`八 メートル)ばかりの空き地は子どもの遊び場所にもなり、また夏の夜の涼み場にも なっている。
2.この四つ目垣には野生の白薔薇をからませてあるが、夏がくると、これに一面に朝顔や花豆をはわせる。その上に自然に生える、からすうりもからんで、ほとんどすきまのないくらいにいろいろの葉が密生する。朝、戸をあけると、赤、紺、水色、柿色さま ざまの朝顔が咲きそろっているのはかなり美しい。タ方がくると、からすう の煙のような淡い花が、しげみの中からのぞいているのを蛾がせせりに来る。薔薇の葉など隠れて見えないくらいであるが、垣根の頂上からは幾本となく勢いのよい新芽を伸ばして、これが眼に見えるように日々生長する。これにまた朝顔や豆の蔓がからみついて、どこまでも空へ空へと競っているように見える。
3.この盛んな勢いで成長している植物の葉のしげりの中に、枯れかかったような薔薇の小枝からすすけた色をした妙なものが一つぶら下がっている。それは蜂の巣で ある。
4.私がはじめてこの蜂の巣を見つけたのは、五月の末ごろ、垣の白薔薇が散ってしまって、朝顔や豆がやっとふたばのほかの葉を出しはじめたところであったように記憶し ている。花の落ちた小枝をきっているうちに気がついて、よく見ると、大きさはやっと おやゆびの頭くらいで、まだほんのつくりはじめのものであった。これにしっかりし がみついて、黄色い強そうな蜂が一匹働いていた。
5.蜂を見つけると、私は中庭で遊んでいる子どもたちを呼んで見せてやった。都会で育った子どもには、こんなものでもめずらしかった。蜂の毒の恐ろしいことを学んだ 長子らは、何も知らない幼い子にいろんなことを言っていましめたりおどしたりした。自分は子どもの時には蜂を怒らせて耳たぶを刺され、さんしち(三七草)の葉をもんで すりつけたことを想い出したりした。あの時分はアンモニア水を塗るというような ことはだれも知らなかったのである。
6.とにかくこんなところに蜂の巣があってはあぶないから、落としてしまおうと思ったが、蜂のいない時の方が安全だと思ってその日はそのままにしておいた。
7.それから四、五日はまるで忘れていたが、ある朝、子どもらの学校へ行った留守に庭へ降りたなにかのついでに、思い出してのぞいてみると、蜂は前日と同じように、からだをさかさまに巣の下側に取り付いて仕事をしていた。二十くらいもあろうかと思う六角の蜂窩の一つの管に継ぎ足しをしている最中であった。六稜柱形(六角柱の形) の壁の端をあごでくわえて、ぐるぐる回って行くと、壁はニミリメートルくらい長くのびていった。その新たにのびた部分だけがきわだってなまなましく見え、上の方のす すけた色とは著しく違っているのであった。
8.一回り壁が継ぎ足されたと思うと、蜂はさらにしっかりとからだの構えをなおして、そろそろと自分の頭を今つくった穴の中へさし入れていった。いかにも用心深くそろそろとからだを曲げて頭の見えなくなるまでさし入れた、と思うと間もなく引き出した。穴の大きさを確かめてはじめて安心したといったように見えた。そしてすぐに隣の管に取りかかった。
9.私はこの歳になるまで、蜂のこのような挙動を詳しく見たことがなかったので、強い好奇心に駆られて見ているうちに、この小さな昆虫の巧妙な仕事を無残に破壊しようという気にはどうしてもなれなくなってしまった。
10.それからはときどき、庭へ下りるたびにわざわざのぞいてみたが、蜂のいない時はむしろまれであった。見るたびに六稜柱の壁はだんだんのびていくようであった。
11.ある時は、あごの間に灰色の泡立った物質をいっぱいにためていることが眼についた。そして壁をのばすかわりに、穴の中へ頭をさしこんで内部の仕事をやっていることもあった。しかしそれがどういう目的で何をしているのだか自分にはわからなかった。
12.そのうちに私は何かの仕事にまぎれて、しばらく蜂のことは忘れていた。たぶん半月ほどたってからと思うが、ある日ふと想い出してのぞいて見ると蜂は見えなかった。 のみならず、巣の工事は前に見た時と比べてちっとも進んでいないようであった。なんだか予想がはずれたというだけでなしに、一種の一一ごく軽い淋しさといったような心持ちを感じた。
13.それから後はいつまでたっても、もう蜂の姿は再び見えなかった。私はどうしたのだろうといろいろなことを想像してみた。往来で近所の子どもにでも捕らえられたが、それとも、私の知らないような自然界の敵に殺されたのか、とも考えてみた。しかしまたこの蜂が今、現に、どこか遠いところで知らぬ家の庭の木立に迷って、あてもなく飛んでいるような気もした。
14.私は親しい友だちなどが死んだ後に、ひとりで街の中を歩いていると、ふとその友が、現に、同じ東京のどこかの町を歩いている姿をありあり想像して、言い知れぬさびしさを感ずることがあるが、この蜂の場合にもこれとよく似た幻を頭に描いた。そして強いまぶしい日光の中にキラキラして飛んでいる蜂の幻影が、妙にさびしいものに思われてしかたがなかった。
15.ある日、何かの話のついでにSにこの話をしたら、Sは私とはまるでちがった解釈を
した。蜂は場所が悪いから断念してほかへ移転したのだろうというのである。そう言われてみれば、あるいはそうかもしれない。実際、両側に広い空き地をひかえたの垣根では、嵐が吹き通したり、雨に洗われたり、人の接近することが頻繁であったりするので、蜂にとってはあまり都合のいい場所ではない。しかしはたして、蜂がその本能あるいは智慧で判断していったん選定した場所を、作業の途中で中止してよそへ移転するというようなことがあるものか、ないものか、これは専門の学者にでも聞いてみなければわからないことである。
16もしSの判断が本当であったとしたら、つまり私は自分の想像の中で、強いてあわれな蜂を殺してしまって、その死を題目にした小さな詩によって、安直な感傷的の情緒を味わっていたことになるかもしれない。しかしいずれにしても私の幻想を無造作に事務的に破ってしまったSに対して、軽い不平を抱かないではいられなかった。そしてこんなささいなことがらにも、オプチミストとペシミストの差別は現われるものかと思ったりした。
17.今日のぞいてみると、蜂の巣のすぐ上には棚蜘蛛が網を張って、その上には枯れ葉や塵埃がいっぱいにきたなくたまっている。蜂の巣といいながら、やはり住む人がなくて荒れ果てた廃屋のような気がする。この単のすぐ向こう側に真紅のカンナの花が咲き乱れているのが、いっそう蜂の単をみじめなものに見せるようであった。
18私はともかくも、この単を来年の夏までこのままそっとしておこうと思っている。
来年になったらこの古い巣に、もしやなにごとか起こりはしないかというような予感がある。