日语文学作品赏析《若叶の雨》
作者:薄田淳介
来源:青空文库
翻译:王志镐
野も、山も、青叶若叶となりました。この顷は――とりわけて今年はよく雨が降るやうです。雨といつてもこの顷のは、草木の新芽を濡らす春さきの雨や、もつと遅れて来る梅雨季つゆどきの雨に比べて、また変つた味ひがあります。春さきの雨はつめたい。また梅雨季の雨は忧郁にすぎますが、その间にはさまれた晩春の雨は、明るさと、快活さと、また暖かさとに充ち溢れて、银のやうにかがやいてゐます。春さきの雨は无言のまま濡れかかりますが、この顷の雨はひそひそと声を立てて降つて来ます。その声は空の霊と草木の精とのささやきで、肌ざはりの柔かさ、溜息のかぐはしさも思ひやられるやうな、静かな亲みをもつてゐます。时々风が横さまに吹きつけると、草木の叶といふ叶は、雨のしづくが首筋を伝つて腋の下や、乳のあたりに滑り込んだやうに、冷たさとくすぐつたさとで、たまらなささうに身を揺ぶつて笑ひくづれてゐるらしく见えるのも、この顷の雨でないと味はれない快活さです。
无论是原野还是山坡,都披上了一层嫩叶的新绿。最近,特别是今年好像经常下雨。虽说是雨,但与浸湿草木新芽的初春的雨,和姗姗来迟的梅雨季的雨相比,又有一种独特的韵味。早春的雨感觉有点冷,而梅雨季节的雨太过于忧郁,而夹在其间的晚春的雨,洋溢着明亮、快活和温暖,像白银般闪闪发光。早春的雨无声地滋润着一切,而这个时候的雨是悄悄地打着节拍似的下着。那是空灵与草木之精的窃窃私语,让人体会到接触皮肤时的柔滑,长吁短叹的美妙,还有一种静谧的亲切情感。不时一阵狂风吹来,草木的叶片一阵乱摇,雨滴从脖颈滑落到腋下、奶窝,让人觉得又冷又痒。这种快感只有在近来的雨中才能体会到。
この快活さと明るさとにそそのかされて、ひき蛙はのつそりと草叶のかげから这ひ出して来ます。どうかした拍子に雨だれが顔の上に落ちかかると、ひき蛙はちやうど酔ひどれが口の端の酒の泡を気にするやうに、不器用な手つきでそつと鼻さきを抚でまはしてゐます。そして时々立ちとまつて、昔驯染の俳人一茶が、旅姿のままでぐしよ濡れになつてゐはしないかと気づかふやうに、きよろきよろとあたりを见まはしてゐます。ひき蛙よ。お前が寻ねてゐるらしい一茶は、いい俳人だつたが、彼の魂は长年の悲みと苦みとのためにねぢけてゐる。明るいこの顷の雨と一しよに濡れるには、ふさはしからぬ友达の一人です。お前にはもつといい友达がそこに出て来ました。
在这种快活和开朗的刺激下,青蛙从草叶后面爬了出来。雨滴不小心落在脸上时,青蛙就像醉汉在意嘴角的酒沫一样,用笨拙的手轻轻地摸着鼻子。他不时停下脚步,仔细打量着四周,仿佛在观察一位过去很熟的俳人一茶,依然穿着旅行装束,担心浑身是否湿透了。青蛙啊。你在问的一茶,虽然是个好俳句诗人,但他的灵魂却因为长年的痛苦和悲伤而变得支离破碎。在这明媚的日子里,我是当之无愧的好朋友之一,你的好朋友出现在这里了。
それは蟹です。蟹は土まみれの甲罗のままで、庭石のかげから横柄な身ぶりで这ひ出して来ました。钢鉄制の蒸気机関の模型か何かのやうな厳畳づくりで、ぶつぶつ泡を吹いてゐるところは、どう见てもドイツ人の考案したらしい生物で、甲罗のどこかに『クルツプ会社制造』とでも极印が打つてありさうな気がします。私の家は海近い砂地に建つてゐるせゐか、蟹が沢山ゐて、梅雨季になると、壁を伝ひ、柱にすがつて畳の上にまで这ひあがつて来ることがよくあります。
那是螃蟹。螃蟹带着满身泥土的甲壳,从庭园的石头后面傲慢地爬了出来。那是一种类似钢铁蒸汽机模型的,像严严实实的榻榻米般的东西,上面还冒着泡泡,怎么看都象是德国人发明的生物,龟壳上似乎打着“克鲁茨普公司制造”的印记。我家建在海边的沙地上,有很多螃蟹,一到雨季,螃蟹就会沿着墙壁,抱着房柱,一直爬到榻榻米上。
蟹よ。お前とひき蛙とは、それぞれ异つた生活をしてはゐるが、どちらも自尊家で、自尊家につきものの孤独性をもつてゐるところはよく似てゐるやうです。むかし厌世哲学者のシヨペンハウエルは、イタリイの都に旅をして、ところの人达――わけて美しい妇人达が、自分に対しては一向冷淡なのにひきかへて、同じ时同じ都に来てゐた厌世诗人のバイロンに対しては、まるで王侯をもてなすやうな歓迎ぶりなのを见て、ひどく机嫌を损じて、そこそこに旅をひきあげたといひますが、蟹とひき蛙とはどちらも曲者くせもの揃ひで、不器量なことにかけてもいい取り合せですから、お互に机嫌を悪くしあはないですむことです。
螃蟹啊,你和青蛙虽然各自过着不同的生活,但都是自尊家,都有自尊家的孤独性,这一点是相似的。从前,厌世哲学家叔本华到意大利首都旅行,那里的人们——尤其是美丽的妇女们,对自己一向冷淡,相反地对在同样时间来到同样都市的厌世诗人拜伦却简直就像招待诸侯一样欢迎他,于是心里非常不高兴,就草草地离开了,但螃蟹和青蛙都是形神兼备的人,长得丑也没关系,只要彼此都不嫌弃就可以了。
木の上ではまた、雨蛙と蜗牛とが雨を楽んでゐます。雨蛙は闻えた独唱家ですが、蜗牛はまた风がはりな沈黙家です。一人は叶から叶へと飞び移りますが、一人は枝から枝へと滑り往きます。雨蛙は芸人のやうに着のみ着のままでどこへでも出かけますが、蜗牛は霊场めぐりの巡礼のやうに、自分の荷物は一切合财ひつくるめて、背にしよつて出かけます。二人はたまに広い、青々した芭蕉の叶の上で出逢ふことがありますが、互に目礼のまま言叶一つ交さないでさつさと往き过ぎてしまひます。彼等はどちらも腹一杯雨を楽み、雨を味ひ、また雨に戯れるに余念がないのです。ぐづぐづしてゐると、雨がいつ霁れ上るかもわからないのを知つてゐますから。
青蛙和蜗牛又在树上享受着雨的乐趣。雨蛙是有声音的独唱家,蜗牛又是有风度的沉默家。一个人从一片叶子跳到另一片叶子,一个人从一根树枝滑到另一根树枝。青蛙就像艺人一样,穿着一身衣服去任何地方,蜗牛就像去灵场巡礼一样,把自己所有的行李都裹在身上背在背上。两人偶尔会在广阔的青翠的芭蕉叶上相遇,但彼此都行注目礼,一句话也没说就匆匆而过了。他们都在尽情享受雨的乐趣,尽情享受雨的乐趣。因为我知道,这样磨磨蹭蹭的,雨不知道什么时候会停。
夜深了,在浴池里悠闲地伸长身体,听着淅淅沥沥的雨声,这种心情是我最喜欢的。不过,我觉得最近的雨实在是太不适宜了。
全文
嫩叶的雨
薄田淳介
原野、山峦都变成了嫩叶。最近——特别是今年好像经常下雨。虽说是雨,但与滋润草木新芽的初春之雨和姗姗来迟的梅雨季之雨相比,这阵子的雨又别有一番风味。初春的雨很冷。梅雨季的雨过于忧郁,而夹在中间的晚春的雨则充满了明亮、快活和温暖,闪着银光。初春的雨无声无息地开始淋湿,而此时的雨却发出嘀嘀咕咕的声音下了下来。那声音仿佛是天空之灵与草木精灵的低语,肌肤柔嫩,气息芬芳,静谧亲昵。不时有风从旁边吹来,草木的叶子就像雨滴顺着脖子滑进腋下和乳房附近一样,又冷又痒,它们受不了似的摇动着身体,笑得前仰后合。这是一种只有时下的雨才能体会到的快活。
在这种快活和开朗的感召下,蟾蜍慢慢地从草叶的阴影里爬了出来。雨水不小心落在脸上,蟾蜍就像醉鬼在意嘴角的酒沫一样,笨拙地抚摸着鼻子。不时站在那里,东张西望地望着四周,仿佛在注意到昔日相熟的俳人一茶是否仍一身行装,浑身湿透了。蟾蜍。你要问的一茶是个好俳人,但他的灵魂却在长年的悲伤和痛苦中卧床不起。和明亮的时雨一起淋湿,是我最好的朋友之一。你有一个很好的朋友出现在那里。
是螃蟹。螃蟹带着沾满泥土的甲壳,从院子里的石头后面横着身子爬了出来。像是钢铁蒸汽机模型之类的严谨榻榻米,上面不断地冒着泡沫,怎么看都像是德国人发明的生物,甲壳的某个地方还打上了“克鲁茨普公司制造”的极印。我家建在海边的沙地上,有很多螃蟹,一到梅雨季,常常爬墙爬柱爬到榻榻米上。螃蟹啊。你和蟾蜍虽然生活各不相同,但都是自尊家,都有自尊家特有的孤独性,这一点倒是很相似。从前厌世哲学家西约本豪威尔到意大利首都旅行,那里的人们——尤其是美丽的妇女们,对自己一向冷淡,相反,对同一时间来到同一城市的厌世诗人拜伦,简直就像国王一样。看到他们像款待侯一样盛情款待,非常不高兴,于是草草地告辞了。螃蟹和蟾蜍都是性格刚强、长相丑陋的完美组合,所以彼此都很不高兴。不用了。
在树上,青蛙和蜗牛也在享受着雨的乐趣。青蛙是有声音的独唱家,而蜗牛又是有风的沉默家。一个人从一片叶子跳到另一片叶子,另一个人从一根树枝滑到另一根树枝。青蛙像艺人一样穿着身上的衣服到任何地方去,而蜗牛则像巡游灵场的巡礼者一样,把自己的行李全部包起来,背在背上出门。两人偶尔会在宽阔的绿油油的芭蕉叶上相遇,但彼此只是注目礼,一句话也不说,匆匆而去。他们都尽情地享受着雨,体味着雨,又尽情地嬉戏着雨。我知道再这样磨磨蹭蹭下去,雨不知道什么时候会停。
夜深了,在浴池里悠闲地舒展身体,听着淅淅沥沥下个不停的雨声,这种心情是我最喜欢的心情之一,不过,我觉得最近的雨更不合适。