原文には「通俗(つうぞくさ わかりやすい)三国志」「三国志演義(さんごくしえんぎ)」その他数種(すうしゅ)あるが、私はそのいずれ(其中之一)の直訳(ちょくやく)にもよらないで、随時(ずいじ いつでも)、長所(ちょうしょ 长处)を取って、わたくし流(りゅう )に書いた。これを書きながら思い出されるのは、少年の頃、久保天随氏の演義三國志を熱読して、三更四更まで燈下(とうか)にしがみつい(しがみつく 紧紧抱住)ていては、父に寝ろ寝ろといって叱られ(しかる 责备)たことである。本来、三国志の真味を酌む(くむ)にはこの原書(げんしょ)を読むに如くはない(にしくはない 最好)のであるが、今日の読者(どくしゃ)にその難 渋(なんじゅう)は耐え得ない(たえうる 能够忍受)ことだし、また、一般(いっぱん)の求める(もとめる 追求)目的も意義も、大いに(おきいに)違うはずなので、あえて(敢于)書肆(しょし 书店)の希望にまかせて再訂(さいてい 再次出版)上 梓(じょうし 出版)することにした。
原著现存《三国志通俗演义》、《三国演义》以及其它数种不同版本,笔者没有完全依据这些版本进行简单的直译,而是各取所长,形成自己风格的《三国》。现在想起来,当时笔者一边奋笔疾书,一边脑海中不由得闪现出少年时代因狂读久保天随先生的《演义三国志》,半夜三更犹猫在灯下不忍释手,被父亲责骂并逼着上床睡觉的情景。
说起来,要想咀嚼和品味到《三国志》的醍醐真味,莫过于阅读原著。然而如今的读者恐怕多会畏惮和止步于其艰涩难懂,同时考虑到一般大众所追求的阅读目的和意义也是千态万状、不一而足,所以都当承奉书肆之嘱托,将旧作加以修订,付梓再版。
しがみつく:紧紧抱住
にしくはない:最好如此
~にまかせる:
他人の判断に任せる 听从人们的判断
足に任せて歩く 信步而行
その件は僕に任せる 这件事交给我办好了
全権(ぜんけん)を任せる 委以全权